2013年8月 7日 (水)

美術アーカイブ:2001年(5) イスラエル美術の近代/現在

イスラエルの新しいアートを紹介する展覧会が2つの美術館で同時開催された。「第1部 イスラエル美術の近代」(神奈川県立近代美術館)および「第2部 イスラエル美術の現在」(埼玉県立近代美術館)だ。共通のテーマは「新千年紀へのメッセージ」。21世紀の初めを飾るタイムリーな企画だった。

「第1部 イスラエル美術の近代」は「近代」と括っているが、展示作品の制作年は1950年代から2001年にわたっており、実質的には現在アートと呼んでも差し支えない新しさだった。

小冊子の解説に「多くのバウハウスのデザインによる建築が残されていることに驚きを感じる」とある。私もイスラエルと聞いてまず思い浮かべるアートの姿があり、バウハウスの影響ということ自体に違和感をおぼえた。そういう意味で、ステレオタイプな物の考え方を是正するという意義があったと思う。

「第2部 イスラエル美術の現在」では、もはやアートに国境がないという事を体感できた。展示された作品は、前提知識なくいきなり観たら、どの国のアーティストによるものか判別できないであろう。ただしそれらの中で社会的メッセージが強い作品においては、やはり国民性、民族性、地域性という要因が頭をもたげてくるように感じられた。

2つの美術館に両方とも足を運ぶ時間があって良かった。

2013年8月 6日 (火)

美術アーカイブ:2001年(4) ドイツ陶芸の100年

「ドイツ陶芸の100年」(東京国立近代美術館 工芸館)の回想。副題は「アール・ヌーヴォーから現代作家まで」。

001

この展覧会は内容的に充実していて楽しかったのだが、それ以上に注目すべきはチラシである。この刺激的な黄色、そして左上にさりげなく書かれた「シゲキがいっぱい***」というキャッチフレーズ。

お堅いはずの国立の美術館が、こんなにハメを外して大丈夫なのだろうか?と心配になってしまった。恐らく企画グループの中では侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が交わされたことだろうと推測した。

002

それはともかく、展示内容は素晴らしかった。形状、色彩、質感などにおいてそれぞれの作品が実に個性にあふれていたから。

ヤン・ボンティエス・ファン・ベークの「筒形花器」は単純な形にまとまっているが、その色彩が実に渋くて美しい。写真で観ると肌触りは樹木のようだ。

006

グスタフ・ヴァイダンツの「水差」はひよこのような形が愛らしく、素朴な色付けも好感が持てる。またこの形は内容積が大きそうで、実用価値もありそうである。

005

そしてベアーテ・クーンの「水の華」(左)、「水生植物」(中央)、「水-有機体」(右)の三部作。これは八木一夫のアヴァンギャルド陶芸のようで楽しい。ほとんど乳白色一色の作品群だが、色彩の助力を伴わなくても充分変化に富んでいる。

004

近代美術館(本館)から坂を上った甲斐があった。

003_2

2013年8月 4日 (日)

美術アーカイブ:2001年(3) フォーゲラー展

「ハインリッヒ・フォーゲラー展」(東京ステーションギャラリー)の回想。副題は「忘れられた愛と春の画家」。

Photo

本来好きなタイプの画家ではないが、写実的な画面の背後に心地よい構成が感じられるので惹かれたのだと思う。

Photo_3

その一例として、「ソビエトの土地における勤労学生たちの冬の任務」を取り上げてみよう。これは社会派的な題材で敬遠したくなる作品だが、キュビズム的な構成は見事だ。

Photo_2

このように骨太の構成に裏打ちされているからこそ、一時的に忘れられていても掘り起こされ、再評価されるのだろう。

Photo_4

2013年8月 2日 (金)

塚本 元展

「塚本 元展『猫と庭』」(art Truth:横浜中華街)に行った。

001

「猫をモチーフにしたシルクスクリーンとドローイング」という具体的な副題が付けられている。この副題が今回の展覧会の内容を的確に表している。

案内葉書に採用された「冬の猫・夏の猫」は対照的な季節の風景を対峙させているが、両者の差異は小さく、全体的に淡く柔らかい印象がある。作家のキャラクターなのであろうか。

このシルクスクリーンには油絵具を用いたとのこと。そうすると色が強くなり過ぎるので、薄い色感を出すためにシルバーを用いたとか、そのような説明を受けた。単純な構図の中にも、このように技術的な工夫と努力がなされているのだと感心した。

ドローイングは猫たちの自由な動きを自然に捉えているように感じた。「さあ描いてやるぞ」と身構えるのではなく、「君たちをちょっと描くからね」ぐらいの、いい意味での軽いタッチだった。

会期中に行けて良かった。

2013年8月 1日 (木)

美術アーカイブ:2001年(2) デ・キリコ展

「デ・キリコ展」(Bunkamuraザ・ミュージアム)の回想。副題は「終わりなき記憶の旅」。

001

中学校だったと思うが、美術の教科書にキリコの名作「通りの神秘と憂愁」の図版が掲載されており、何と不思議な絵だろうと思ったのがキリコとの出会いだった。

ところが、その後出会うキリコの絵はどれもあまり感心できない。特に晩年の「新形而上絵画」と呼ばれている一連の作品はどこがいいのかわからない。「通りの神秘と憂愁」の、あの鮮烈な印象はどこに行ってしまったのだろうか?

002

キリコの作品はタンギーなどのシュルレアリストに強い影響を及ぼしたと聞く。その点だけを捉えても、キリコの美術史上の功績は偉大だと思う。その尊さを認め、尊敬したうえで、つまらないと思う作品は率直につまらないと評したい。

003

まあ、これでもいいのだと思う。現在でも「通りの神秘と憂愁」は大好きだし、他にも愛好する作品が結構沢山あるから。総じて、キリコは好きな画家だというのが結論である。

2013年7月31日 (水)

美術アーカイブ:2001年(1) 小山冨士夫展

21世紀に入り最初に観た展覧会「小山冨士夫展」(出光美術館)の回想。副題は「出光コレクションにみる20世紀作家の回顧」。

004

小山冨士夫が交わった芸術家の中に私が敬愛する八木一夫がいる。他にも北大路魯山人、浜田庄司、バーナード・リーチなどそうそうたるメンバーとの交流があったらしい。

009

親類のある陶芸家に言わせると、小山冨士夫は「素人」なのだという。確かに小山は最初は陶芸家を目指したが、その後は陶磁学者に転じたから厳密にはプロの陶芸家とは呼べないのかもしれない。

しかし絵葉書に採用された「白掻落秋草文瓶」は、そのような巨匠の作品の中に置いても見劣りしないのではないか、と思う名品だと思う。

008

結論として、小山冨士夫をプロ、アマのどちらに分類しようが、産み出した作品が素晴らしいので、偉大な陶芸家と呼びたいし、そう呼ばれるだけのものを持っている人だと思う。

2013年7月29日 (月)

美術アーカイブ:2000年(24) 長谷川利行展

「没後60年 長谷川利行展」(東京ステーションギャラリー)の回想。副題は「下町の哀歓と抒情を描いた異色画家」。

001

2000年最後に観た展覧会は、まさに世紀末の様相を呈していた。どの作品を観ても、荒廃した街に佇む暗い表情をした人物が描かれている。

002

長谷川利行の絵を好きか?と聞かれてイエスと即答する人が何人いるだろうか?私自身も長谷川の絵は愛する対象とはなりにくい。しかし長谷川作品からは鮮烈なメッセージが感じられる。思想的・社会的メッセージというよりは、もっと個人的で直截的なもの、言い換えれば抑圧された心の爆発みたいなものだ。言葉を飾って言えば「魂の叫び」という感じだろうか。

003

その強烈さに惹かれて、作品が好きだというわけではないのに、長谷川利行の展覧会に足を向けてしまったのだが、そういう人は私以外にもおられたのではないだろうか。

なお長谷川利行は酒びたりで放浪して命を縮めたということで夭折の画家だと思っていた。しかし実際に寿命が尽きたのは49歳であり、思ったほど短命ではないことがわかった。精神的にも肉体的にもボロボロになりながら、芸術に対する情熱を絶やさず、それにより命を保っていたのかもしれない。

2013年7月28日 (日)

ミモザの会 展

「第25回 ミモザの会 展」(藤沢市民ギャラリー)に行った。

001

このグループは講師♪蓮池高夫の指導のもとに絵画制作を行っている。蓮池高夫については、2010年に開催された「藤沢美協会員展」で「生命」という半抽象の作品を観て「荒々しい中に構成感がある」という感想を抱いた。それに対して今回展示された「藤沢川の新緑」は水彩による洒落た風景画だった。様々なタイプの絵を描くことができる画家なのだろう。

案内葉書に連絡先として名前が書かれている♪昆田須美子の「花Ⅱ」は花瓶の花を描いた具象画だ。ただ普通の静物画と異なるのは、画面を分割するような横線が何本か引かれていた点である。それによりキュビズムのようなたたずまいとなっている。この描き方をもう少し推し進めるとキュビズムになるのではないかという感じがする。

同じ作家の「豚舎」も一味違う風景画だ。建物の背後にある樹木の枝の描き方がモンドリアンの初期作品に似ているのだ。こちらも、これを追求していくと直線で画面を分割する完全抽象に行きついてしまうのではないか、という予感がする。

昆田須美子の2作品に見られるこのような特徴は、作家が普通の風景画に飽き足らず、新しい工夫を凝らした跡ではないかと考える。それは作家自身の自己努力によってもたらされたものであろう。キュビズムやモンドリアンの平面分割などを単に模倣するなら簡単だろう。しかし昆田は真似ではなく、自ら「何か」を求めて模索した結果としてこの2作品を編み出したのだろうと考えた。

昆田の「豚舎」の特質は、同じ景色を描いたであろう♪佐々木博通の「早春の豚舎」と比べてみるとよくわかる。佐々木作品のほうは、より写実性が強く、落ち着いた風景画である。変えてゆくのだけが能ではなく、このように既存のスタイルの中で深みを求めるのも一つのいきかただと思う。

面白いと思ったのは♪山口俊子の絵画にコラージュを施した作品だ。「クラシック」は音楽を題材としており、楽譜がコラージュされている。しかしその手法は時々見かけるのでさほど新鮮味がない。面白かったのは「アップルの庭にようこそ」だ。これは林檎を題材としていると同時に、企業のアップル社も暗示している。そして画面右手にはアップル社の株価にふれた新聞記事がコラージュされているのである。何と楽しい作品なのだろう。

楽しい展覧会だった。

2013年7月25日 (木)

糸井邦夫 情景画展

「糸井邦夫 情景画展」(art Truth:横浜)に行った。


001

糸井邦夫の作品は同ギャラリーで過去に2回観ている。2010年の展覧会では俳人・尾崎放哉の俳句を題材とした版画が展示されていた。そこで「尾崎放哉の詩」という画集も展示即売しており、1冊を購入した。

また2012年には今回と同じテーマ(情景画)の展覧会が開催され、動物画などを楽しんだ。

そして今回は陶器で作った小さな額に絵を嵌め込んだ作品など、また違った面白さがあった。案内はがきに採用された「優しい女」はタイトルも絵も美しかった。

2013年7月24日 (水)

美術アーカイブ:2000年(23) ベッティナ・ランス写真展

「ベッティナ・ランス写真展 イエスの生涯」 (小田急美術館)の回想。

001

「フランスの女性写真家が挑む現代の宗教画」という副題が、地味だが具体的に展覧会の内容を表している。新約聖書から約100のシーンを選び、無名のモデルを使って映像でそれぞれの場面を表現した作品群だ。

チラシには「最後の晩餐」という作品が採用されていた。キリスト教徒であってもなくても、これがどのような場面で、時代的にはいつ頃のことなのかはほとんどの人がイメージを持っているだろう。その先入観を抱いてこの作品を観ると、違和感を覚えるはずだ。

キリストらしき人物の周囲に集合している弟子らしき人物は13名ではなく12名だ。当時は存在しなかったはずのチェロが演奏されている。上のほうを見ると、当時は無かったのではないかと思われる四角いガラス窓がある。テーブルの下を見ると、キリストらしき人物はスニーカーを履いている。

002

これは現代の風俗(服装、住居、楽器などを含む)で聖書の世界を追体験することを狙ったものであろう。独特なアイデアだ。

003

半券には、チラシの表・裏に掲載されていない作品「新しいイブ」が刷られていた。チラシとの重複が無いという点で努力賞を贈りたい。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック