2012年7月 3日 (火)

真夏の夜の夢:「返さず奏法」で大儲けするビジネスモデル?

ピアノ演奏では「指の返し」というのがある。以下しばらくその説明をするので、ご存じの方は冗長ご容赦戴きたい。

右手でハ長調の音階を弾く際、親指から始めて中指まで使って「ドレミ」を弾く。次のファだが、薬指で弾くのではない。親指を他の指の下をくぐらせ、もう一度親指でファを弾く。すると最後の小指まで使って「ファソラシド」が弾けるのでぴったり1オクターブ弾ける。これが「指の返し」だ。

しかし初心者のうちは、指を返す際にぎくしゃくしてしまう。そのため「ドレミファソラシド」と滑らかには弾けず、大げさに言えば「ドレミ、ファソラシド」というように不揃いな弾き方になりがちだ。これを「粒が揃わない」と言う。

私はこれを解消する手段を開発した。それは指を返さないことだ。例えば両手を並べて使えば、音が10個まで指の返しをせずに弾ける。しかしこれは根本的な解決にはなっていない。音が11個以上連なった場合は対応できないからだ。

ではどうするかと言うと、既存の楽曲を捨て、指を返さないでも弾ける曲を作曲するのだ。あるいは既存の曲を、指を返さないでいいように編曲するという方法もある。

私はこれを★「返さず奏法」★と名付けた。そしてこれで世界を制覇し、大儲けをしようとたくらんだのだ。それはどうやって達成できるのか?

1.子供が好きそうな既存の曲を何曲か選び、それらを「返さず奏法」用に編曲する。
2.ピアノのおけいこに通っている子供たち、特に金持ちの子供たちを探す。
3.その子供たちにアメか何かを与えて接近する。
4.「返さず奏法」の曲の楽譜を与えて「この曲は易しく弾けるよ」と言う。
5.子供たちは帰宅して「返さず奏法」の曲をピアノで弾いてみる。易しく、粒が揃うことがわかる。
6.これを繰り返し、子供たちを「返さず奏法」のファンにしてしまう。

以上で第1ステップが達成される。ここからの展開が速い。

7.子供たちはピアノのレッスンに行っても、先生の与える曲が難しく、「返さず奏法」の曲のほうがいいと泣く。先生困る。
8.子供たちは自宅でも同様の態度を示し、親を困らせる。
9.先生は「返さず奏法」がどんなものか、子供たちから楽譜を借りて弾いてみる。先生その弾きやすさにうなる。
10.親も同様に「返さず奏法」の素晴らしさを納得する。

この返でもうジョヴァンニの深慮遠謀が見え隠れしてきたと思う。

11.先生と親は子供たちに「この楽譜は誰からもらったのか」と聞く。
12.子供たち「ジョヴァンニおじさん」と答える。
13.先生と親はジョヴァンニに連絡し、「返さず奏法」の楽譜を譲って欲しいと頼む。ジョヴァンニは「本当は1冊1万円だが、特別に無料で差し上げます」とか何とか恩着せがましく言って楽譜を進呈する。これは「損して得取れ」の戦略の一環である。
14.これを繰り返し、「返さず奏法」はだんだんと世間に浸透してゆく。

ここまで到達したら、後はよくある悪どいやり口で進める。

15.「返さず奏法」は楽譜のシェアの50%を超えるまでに普及する。当初は「返さず奏法のためのXXX」という曲名が付けられていたが逆転し、「返さず奏法」がデファクト・スタンダードになり、曲といえば「返さず奏法」で書かれた曲を意味するようになる。そして従来の奏法が逆に「レガシー奏法」と呼ばれるまでに変化する。
16.この段階でジョヴァンニ急に楽譜を有料化する。
17.先生と親は困るが、先生・親・子供のすべてが「返さず奏法」に染まってしまっているので後に戻れない。仕方なく楽譜を買う。
18.世界中で「返さず奏法」の楽譜が売れ、ジョヴァンニ大金持ちになる。宝くじに当たるよりもっと儲かる。

・・・という真夏の夜の夢を見た・・・

2011年5月20日 (金)

音楽アーカイブ:大学~バロック音楽

バロック音楽の同好会ではチェロで通奏低音を弾く機会が多かったが、これが楽しかった。高音の旋律楽器が奏するメロディーに対し、複旋律で同等に渡り合ったり、対旋律で相手を引き立てつつ自分も音の動きを楽しめたからである。古典派以降の音楽ではなかなかこの楽しみ方ができない。

問題は、この同好会では「ゲンダイオンガク」にアレルギーを持つメンバーが多く、一部の友人を除くとひたすらバロック音楽ばかり取り組んでいたことだ。だから通奏低音の演奏は楽しかったが、現代曲から遠ざかるのが残念だった。吉村弘と即興したり、「現代音楽を楽しむ会」を聴きに行ったりしたのはその穴埋めだったと思う。

古い音楽ではバッハの「フーガの技法」を至高の芸術と思った私は、チェルニー校訂のピアノ独奏版の楽譜を3冊買い、1冊は自分用で、残りの2冊を同好会の友人に渡した。この曲の素晴らしさを共有したかったからである。自分では第19曲(あの未完のフーガ)を練習し、ある程度は弾けるようになった。

このように、大学時代はバロック音楽と現代音楽という両極を愛好した。それに対し、それらの間の時代に作られた音楽(ベートーヴェンやロマン派など)は、つまらないので忌避していた。ただしベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲とシューベルトの歌曲は例外である。もっともシューベルトの歌曲は「歌」としては接していなかったようだが・・・。

音楽アーカイブ:大学~岩竹徹

作曲家になりたいという夢を持ったまま、中途半端に大学に進学し、バロック音楽の同好会に入ったとき岩竹徹に出会った。

彼は私よりはるかに先んじいて、自作の弦楽四重奏曲をピアノで聴かせてくれた。その曲は何かのコンクールに応募したものだと聞いた。あいにく受賞には至らなかったらしいが、それは結果論で、なかなか素晴らしい曲だ。十二音技法で作られたのではないが、十二の音が自由に飛び跳ね、調性感を残した無調というようなたたずまいだった。

ある時彼は音で立体図形を表現できないかと考えていた。多数の弦楽器で少しずつずらしながらグリッサンドを奏し、円錐の形を浮き上がらせようというのである。真っ直ぐで短い木の枝をすこしずつずらしながら組んでいき、鳥の巣のような形を編み上げたゴールズワージーのアート作品を想起させる。

ところが後日彼が英語の論文のコピーを携え、がっかりした様子で「先を越された」と言った。どうやら同じ事を考え、論文に発表した人がいたらしい。作曲家のペンデレツキだったかもしれない(記憶は曖昧)。論文をちらっと見たが、英語で読めなかったし、出てくる数式も難しそうだった。

そうこうするうち、彼はとうとう東京文化会館で自作を発表する場を作ってしまった。オーケストラ曲の指揮は彼自身が行った。

近く彼に再会し、音楽談義に花を咲かせたい。そしてこの記事に書いた中で曖昧な部分を確かめたいと思っている。

音楽アーカイブ:大学~現代音楽を楽しむ会

「現代音楽を楽しむ会」というのは、今は無き青山タワーホールで開催された現代音楽のコンサートシリーズだが、なんと無料で公開されていた。現代音楽を啓蒙するという目的のために無料にしたのだろうけど、必要なお金はどこから出たのだろうか?

このコンサートシリーズで特に楽しめたのは「室内楽‘70」というトリオのユニットだ。植木三郎のヴァイオリン、野口龍のフルートに若杉弘のピアノというメンバーで、当時の作曲家の新作を次から次へと初演・再演してくれた。この活動のお陰で、同時代の音楽に対する見聞が広まったので感謝したい。

特に印象に残ったのは三善晃の「オマージュ」。(その後「オマージュⅡ」が続いた)。いい意味で軽さがあり、内容も充実していてとても素敵な曲だった。

時には別の演奏メンバーで、既に古典になったシェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番の演奏もあった。珍しさは無いが、名作はやはりそれなりのオーラを放っていて良かった。

音楽アーカイブ:大学~吉村弘との即興演奏

大学時代は様々な方法で当時の「現代音楽」を楽しんだが、故・吉村弘氏との即興演奏は忘れられない思い出となった。

環境音楽家 吉村弘氏(「雲のおじさん」という異名あり)と知り合い、氏の主宰する「現代音楽」のコンサートに出演させてもらうというチャンスを得たのだ。それは「麗会」と名付けられたグループのコンサートシリーズで、吉村氏のリコーダーと私のチェロで即興の二重奏を演奏した。

この「麗会」というのは、毎月定例で開催されるという意味の「例会」と、「麗しい会」を合体させた造語である。電子音楽家など様々なタイプのアーティストがそれぞれのジャンルで作品を発表した。

別の機会には、吉村氏作曲の図形楽譜によるヴァイオリンとチェロの二重奏を弾かせて戴いた。これは弦楽器にマイクを取り付けて音を採取し、リアルタイムで流し、実際の演奏音と交わらせるという仕掛けだった。

吉村弘が60代の半ばで旅立ってしまったのは誠に残念だ。

2011年5月16日 (月)

音楽アーカイブ:高校3年~憧れの仮称・上野の森大学

高校3年は受験、そして進路を決める大事な時期である。作曲家にあこがれた私は仮称「国立上野の森大学」(笑)に行きたかった。しかしこのピアノの下手さ加減では作曲科は絶対受からないと太鼓判を押された(苦笑)。その代わり楽理科なら受かるという評価をもらった。試験の実技ではバッハのインベンションが弾ければよいとのことで、当時の私なら一応弾けた。筆記試験のほうは、まあ出来るだろうと思っていた。

では楽理科を目指せば良かったではないか、という考えもある。しかし仮に名門「国立上野の森大学」に入学できても、卒業してからどうするのか?作曲だけして裕福になれる人はほんの一握りだけ。他の人は食うのに困って、音楽教師や各種バイトをつないで生活するしかないだろう。画家の有元利夫のように「上野の森大学」を目一杯活用できれば良いかもしれないが・・・。生活力に自信が無かった私は、そんなわけで音楽への進路を断念した。

ちなみに美術部にいた私のマドンナは美術専攻で「国立上野の森大学」に入学した。これで彼女はますます「高嶺の花」となったのである。

音楽アーカイブ:高校2年~「フーガの技法」との出会い

高校2年に進級するといろいろな意味で変化が起きた。最も重要なのはバッハの「フーガの技法」との出会いであろう。楽譜店「アカデミア・ミュージック」に行って演奏する曲を物色していた時、偶然小型スコアを見つけ、その場で凍り付いてしまったのだ。その譜面の美しいこと!財布は豊かではなかったが、迷いなく買い求めた。

すぐにでも演奏したかったが、パート譜が無い。そこで小型スコアから一生懸命パート譜を起こした。パート譜作成には時間がかかるので、最初に譜面を起こした第1曲をしばらの間弾いていた記憶がある。この曲を知ってしまい、もうこれで古今東西の最高峰に到達してしまったと思った。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」に出会うまでは・・・。

高校では「文化祭」が行われる。弦楽合奏のクラブも演奏を行ったが、部長になった私が独裁的にこのバッハ「フーガの技法」とフォーレ「弦楽四重奏曲」というマニアックな2曲を選曲してしまった。そのため、私たちのコーナーには最初お客が沢山いたが、途中で大半の人がつまらなそうに出て行ってしまった。まったくこれは独善の世界である。

そしてピアノのおけいこ発表会。幼稚園から始めたにもかかわらず上達が遅いため、選んだのはベートーヴェンの「悲愴ソナタ」。私は受験のため高校2年でピアノのレッスンをやめたので、これが私の生涯最高の技巧レベルとなった。それから後は下降線である。現在私が「世界で最もブルクミューラーが似合う男」というのはこのような背景による。

音楽アーカイブ:高校1年~弦楽合奏と幻の弦楽四重奏団

高校に入学した。クラブ活動をどうするかと考え、まず訪れたのは美術部だった。音楽が好きでピアノとチェロを弾いていたとはいえ、私にとって面白かったのは美術のほうだったから。またもう一つ大事な理由があった。それは同学年のカワイイ女生徒が美術部に入ったからだ。よくある話だと思う。

ところがあこがれの美術部の部室に行ったら、飾ってある部員の作品があまりにも見事なで尻込みし、逃げ帰ってしまった。その時じっとこらえて入部したら、私の趣味や恋愛・結婚などが異なる筋道に沿っていったかもしれない。それは誰にもわからない。

というわけで、結局高校でも音楽のクラブに入った。音楽といっても合唱、ブラスバンド、弦楽合奏などのクラブに分かれている。中学でチェロを始めた私は、自然な流れとして弦楽合奏のクラブに入部した。入部当時はヴィヴァルディの合奏協奏曲とかバッハのヴァイオリン協奏曲などを演奏していた。

そんなある日、クラブの3年・2年の先輩3人から声をかけられ、学年を超えて「TISS弦楽四重奏団」を結成した。TISSというのは4人の頭文字をつないだものである。中学でベートーヴェンの弦楽四重奏曲にあこがれた私は夢のような気持だった。

しかしこのTISS弦楽四重奏団は、結局公式の場では1回も演奏せずに消滅した。それどころか、TISSのメンバーが集まって弾いたのは部室で1度練習をしただけだったのだ!その後、弦楽四重奏を弾いたことがあったが、メンバーを固定してコンサート形式で演奏までするようになったのは「半世紀弦楽四重奏団」結成を待たねばならなかった。

2011年5月14日 (土)

音楽アーカイブ:中学3年~ベートーヴェンの弦楽四重奏曲

中学3年の時、父親がベートーヴェン弦楽四重奏曲全集のレコードを買ってきた。これを聴いて衝撃を受け、しばらくの間夢中で聴いていた。そしてベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲は古今東西の楽曲中、最高の芸術だと思った。バッハの「フーガの技法」に出会うまでは・・・。

当時の私はベートーヴェンの弦楽四重奏曲を仲間と演奏できたらどんなに楽しいだろうなあと思っていた。それが現在実現しているわけだが、せっかく実現したのに、今はベートーヴェンの作品(一部を除き)に嫌気がさしているのであまり嬉しくない。人間というか。自分のワガママさ加減に呆れるばかりである。

音楽アーカイブ:中学2年~第1希望ではなかったチェロ

私の中学は公立(市立)だが当時としては珍しくオーケストラがあった。しかもチェロやダブルベースといった大型の楽器がゴロゴロあるという贅沢さであった。そして私の1歳上の従兄がヴァイオリンを弾いていた。2年生になった時、その従兄がオーケストラに誘ってくれた。陸上にも未練があったが、結果的にオーケストラのクラブに転部した。

当初私は携帯に便利な楽器をやりたいと思っていた。例えばフルートとかクラリネットなどである。しかしそれらは人気があり入り込む余地が無いという。それではどの楽器ならやらせてもらえるかと聞いたらチェロだという。それで私は(第1希望ではなかったが)チェロを始めることになった。結果的にはこの選択は大正解だったのだが、当時はそう思わなかった。

チェロはクラブの先輩に習ったが、なかなか思うように弾けなかった。ただピアノをやっていたので、譜面はすぐ読めた。チェロはへ音記号が主体だが、これはピアノの左手と同じだからである。

演奏したのはロッシーニの「セヴィリアの理髪師」序曲とか、ヨハン・シュトラウスのワルツなどであったが、曲はあまり面白いとは思わなかった。縦笛二重奏のシューベルトのほうがずっと楽しかった。

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