鎌倉山の蕎麦処「檑亭」なる名所を訪れし記録。
一本の竹よ、汝は流れ出づる星の数ほどの水滴を導いてきた。傍らの小さな祠は幾千年もの間それを優しく見守ってきたことか。「1」は「根源の数」ゆへ森羅万象の源(みなもと)也。「1」は始まりであり終わり也。
二つのXよ、古風なる石造構造物に何ゆへ近代的な学術記号が刻印されたのか?骰子(サイコロ)の目に誘われたからか。「2」は「極小と分割の数」也。汝は直線の交差により分割されており、定めに従っておる也。汝が震災で崩落した五重塔の基部であるなら神の加護があらんことを。
三つの円環よ、汝らは紋章か、貨幣か、それとも単なる装飾であるか?「3」は「統合の数」也。汝らは八角堂の基部を成すもの也。それに相応しく、八面を統合する役割を担う者たち也。
四角い窓よ、汝なにゆへ四角四面也か?我国に於いて忌み嫌われる数ゆへの仏頂面であるか?されども「4」は「物質界を秩序づける数」として古来より珍重されておる。もっと自信を持ち堂々とせぬか。
五重塔よ、東日本大震災により崩壊した石造物よ。汝、かやふな姿になりしも、威厳を保つことが可能なその精神力は見事也。「5」は「生者の数」也。必ずやいつか復活せぬことを祈願する也。
六角形の石碑よ、松尾芭蕉の句碑よ。冒頭「春」の文字は明快なれど最後の文字が不明瞭なり。これは「桜」か「梅」か?拙者考えるに、花見の季節と言えどこの広大な庭園に桜の樹を認めず。これは「梅」に相違なからふ。蕎麦を食らひながら庭園散策を楽しむこの地に、かつて松尾芭蕉が訪れたといふのは感無量也。「6」は世界を示す「完全数」也。芭蕉翁の俳句の完全性に呼応しておる也。
七つの蕾よ、汝らは開花して客人を楽しませる事なく落下せし悲劇の主人公也。しかれば拙者がせめてもの敬意を表し、ここに掲載する也。これを抽象絵画と見間違え賞賛する心温かき鑑賞者に巡り会う事を祈念する也。「7」は「智恵の数」也。何事も智恵を絞れば活路が見出せる也。
八角堂よ、法隆寺夢殿まで足を延ばずとも、拙者宅の近郊でこのやふな立派な八角堂を鑑賞する事が出来るのは幸せ也。拙者の趣味にてエレキテル画(しゃしん)に悪戯(いたずら)をしたのであるが、これは仏に対し失礼であらふか?しかしこの程度では地獄行きの乗車認定半券(きっぷ)は発行されぬであらふ。安置されていた観音菩薩を失敬した盗賊こそ閻魔大王の特別体罰(しごき)を受けるべき也。「8」は「幸運の数」なるが、盗人には幸運の訪れる事無きやふ。
木戸に嵌め込まれた九本の支柱よ、汝らは勝手口に掲げられた「勝手口」といふ表札に気付いておるか?これは古人一流の洒落であらふか?旅籠の受付(ふろんと)で応対する人間の胸元に「人間」と書くようなものではあらぬか?人類の為す事はかの如く不可思議な事が多い也。「9」は「聖なる3」の二乗なり。この聖の力をもって裏口を邪悪な力から守護しているのであらふか。
石造十王像よ、汝らの中央に鎮座し、ひときわ巨大なる体躯を誇っているのは閻魔大王であるか?我国では、昔「Emma」なる写真週刊誌が発刊されていた也。しかし「Focus」と「Friday」の寡占の過程で淘汰されてしまった也。「エンマ」とはかくもはかない存在なのであらふか?それとも復権の時を虎視眈々と狙っておられるのか?「10」は「ひとまとまりの数」也。皆が一致団結すれば必ずや復活の機会が訪れる也。
十二の刻を示す日時計よ、遥かより汝は何時?といふ問ひに静かに答えてきたのであらふか。このやふな中年紳士特有言葉遊戯(おやじぎゃぐ)は仏の逆鱗に触れるであらふか?「12」は「完結した環」也。完全なる作品に無意味な言葉を仕掛けるほど愚かな行為は無いと知る也。
十六羅漢群よ、汝なにゆへ単身なりか?春とはいえ未だ寒風吹く最中、さぞかし淋しからふ。石造十王像に身を寄せ、「石造十一王像」と謳って何が悪いか。「11」は「沈黙の数」として仏像に似合う也。なお「16」は「全体性の象徴」であり、羅漢群に相応しい数也。
十九番札よ、注文と支払いとを紐付ける証憑よ。汝の番号は、はからずも拙者の新制高校新入生時代の学級番号と一致する也。是また楽しからずや。「19」は「メトン周期の数」として記憶される也。
百仏崖よ、汝らは決算上も堂々と百といふ報告をなすのであるか?一体の仏は尊ぶべき存在なり。その数を概数のまま株主に報告することは統制上の不備となれり。しかしなれど、拙者にはその数を実地棚卸するほどの時間と体力が無いのが辛いところ也。「100」は「成就の数」也。財務報告の信頼性が成就されることを祈念する也。
千五百二捨二円の蕎麦よ、魅惑的な天せいろよ、汝のお陰で今日に必要な糧を得てアート渉猟の活力を漲らせることができた。花より団子、桜より天せいろと古人は詠んだ(かもしれぬ)。
最近のコメント