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2022年6月21日 (火)

「大血眼展」とは結局何だったのか?

昨日6月20日(月)日本橋のギャラリーカノンで「大血眼展」がスタートし、ライブ・パフォーマンスにチェロで出演した。主ブログ「ジョヴァンニッキ2」には書きにくい事を含め、感じたことを脚色つけずに素直に書いてみることにした。

◆スペースについて
ギャラリーカノンは個展会場なら充分なスペースが取れるが、今回は大所帯でスペースの限界に近かった。出展者が28名で、各自複数の作品を展示した。壁面は作品で一杯になった。

さらにライブ・パフォーマンスでは最初から最後まで金属打楽器の原田氏とチェロの私が会場の隅に陣取り、わずかな空きスペースでダンスなどが披露された。来場者は靴を脱いで床に広げたシートに座ってもらった。

私が心配したのは出展者以外のお客様の数である。無料ではない(¥300のチャージ)から気軽に立ち寄る人はいないと思ったが、出展者が各自1人づつ友人を誘っても30名近くになってしまう。果たしてキャパは持ちこたえるのか?と思ったのだ。

結果としてお客様は何人だったのだろう?密に近い状態ではあったが、スペースに若干余裕があった。推測だが、純粋のお客様は5~6人ぐらいだったと思う。

こんな事は構想段階でわかっていたはずだ。そのような制約条件のもとで果敢に取り組んだ企画グループはすごいエネルギーを持っていると思った。

◆内容について
展示作品も、ライブ・パフォーマンスの内容も、一貫性はあまり感じられなかった。統一テーマがあったような気がするが、結果的に拡散していた。それがいい・悪いという評価はできないが。

あえて言えば、「審査が多少あるアンデパンダン展」あるいは「プロのアーティスト達の学芸会」といった印象を受けた。

アーティスト達のメリットとしては、「かしこまった展覧会では出来ないが、自らの主張を通すためにぜひやっておきたいアヴァンギャルドなことが出来る」という事ではないか。もちろんそこには「人の心身を不健康にさせるもの・ことは避ける」という最低限の暗黙ルールがあったように思える。

展示やパフォーマンスの中には、その規則ギリギリのところまで達していたものがあった。それらをどう評価するかは「あなた次第です!」となるんだろうけど。

◆他の人が思い付かなかった、あるいは常識が邪魔して発想すらできなかったことに挑戦することについて
これには勇気がいるだろう。例えばジョン・ケージの「4分33秒」は発表した当時は「こんなの芸術じゃない」と罵倒されたと推測する。

このようにコンセプトを限界ぎりぎりまで表明してしまうと、その後に産み出される全ての芸術はその「結界」の中に留まるしかない。すると強い「閉塞感」が襲ってくる。

そういう意味でコンセプトの拡大は罪な事なのだが、アーティストとしては「一度はやってみたい」ことなのではないか。

ルネ・シェヴィリコフスキのパフォーマンスは朗読と歌の境界線上にあり、音色的に許容されるぎりぎりのところに挑戦していた。ここまでやられてしまうと、それはケージと同罪になるかもしれない(笑)。

“しらないひと”はロックなどのライブで聴衆を煽って盛り上げる方法をギャラリーに持ち込んだ。これも「ケージ罪」(仮称)の対象となるか。

◆音楽パフォーマンスについて
原田氏が奏した打楽器は「ポワーン」という広がりのある響きを産み、同時にピンピンという跳ねるような音も出した。それらにより他のパフォーマンスのよきBGMとなっていた。

私はチェロで原田氏とカブらないようにしながら、独自の音を出そうと努力した。

本音を言うと、パフォーマンスが始まる前に原田氏と私で試奏したときが最も面白いアンサンブルになったようだ。「それを言っちゃおしめえよ」と怒られそうだが・・・。

原田氏の楽器の音は不思議だ。音程感が希薄なのである。そのため私がチェロでどんな音高で弾いてもハモって聞えたのだ。これは面白い。今後も共演したい。

◆展覧会の意義について
率直に言って、これは「アーティストのための展覧会」だと思った。先に述べたように、出展者はコンセプトの拡大に挑戦でき、他のアーティストに刺激を与え、アーティスト同士の出会いが生まれたと思う。

アートギャラリーの存在目的が何かまで考えるとキリがないが、これも目的の一つとして充分に成立すると思う。

皆様お疲れ様でした。

 

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