« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月31日 (水)

美術アーカイブ:2001年(1) 小山冨士夫展

21世紀に入り最初に観た展覧会「小山冨士夫展」(出光美術館)の回想。副題は「出光コレクションにみる20世紀作家の回顧」。

004

小山冨士夫が交わった芸術家の中に私が敬愛する八木一夫がいる。他にも北大路魯山人、浜田庄司、バーナード・リーチなどそうそうたるメンバーとの交流があったらしい。

009

親類のある陶芸家に言わせると、小山冨士夫は「素人」なのだという。確かに小山は最初は陶芸家を目指したが、その後は陶磁学者に転じたから厳密にはプロの陶芸家とは呼べないのかもしれない。

しかし絵葉書に採用された「白掻落秋草文瓶」は、そのような巨匠の作品の中に置いても見劣りしないのではないか、と思う名品だと思う。

008

結論として、小山冨士夫をプロ、アマのどちらに分類しようが、産み出した作品が素晴らしいので、偉大な陶芸家と呼びたいし、そう呼ばれるだけのものを持っている人だと思う。

2013年7月29日 (月)

美術アーカイブ:2000年(24) 長谷川利行展

「没後60年 長谷川利行展」(東京ステーションギャラリー)の回想。副題は「下町の哀歓と抒情を描いた異色画家」。

001

2000年最後に観た展覧会は、まさに世紀末の様相を呈していた。どの作品を観ても、荒廃した街に佇む暗い表情をした人物が描かれている。

002

長谷川利行の絵を好きか?と聞かれてイエスと即答する人が何人いるだろうか?私自身も長谷川の絵は愛する対象とはなりにくい。しかし長谷川作品からは鮮烈なメッセージが感じられる。思想的・社会的メッセージというよりは、もっと個人的で直截的なもの、言い換えれば抑圧された心の爆発みたいなものだ。言葉を飾って言えば「魂の叫び」という感じだろうか。

003

その強烈さに惹かれて、作品が好きだというわけではないのに、長谷川利行の展覧会に足を向けてしまったのだが、そういう人は私以外にもおられたのではないだろうか。

なお長谷川利行は酒びたりで放浪して命を縮めたということで夭折の画家だと思っていた。しかし実際に寿命が尽きたのは49歳であり、思ったほど短命ではないことがわかった。精神的にも肉体的にもボロボロになりながら、芸術に対する情熱を絶やさず、それにより命を保っていたのかもしれない。

2013年7月28日 (日)

ミモザの会 展

「第25回 ミモザの会 展」(藤沢市民ギャラリー)に行った。

001

このグループは講師♪蓮池高夫の指導のもとに絵画制作を行っている。蓮池高夫については、2010年に開催された「藤沢美協会員展」で「生命」という半抽象の作品を観て「荒々しい中に構成感がある」という感想を抱いた。それに対して今回展示された「藤沢川の新緑」は水彩による洒落た風景画だった。様々なタイプの絵を描くことができる画家なのだろう。

案内葉書に連絡先として名前が書かれている♪昆田須美子の「花Ⅱ」は花瓶の花を描いた具象画だ。ただ普通の静物画と異なるのは、画面を分割するような横線が何本か引かれていた点である。それによりキュビズムのようなたたずまいとなっている。この描き方をもう少し推し進めるとキュビズムになるのではないかという感じがする。

同じ作家の「豚舎」も一味違う風景画だ。建物の背後にある樹木の枝の描き方がモンドリアンの初期作品に似ているのだ。こちらも、これを追求していくと直線で画面を分割する完全抽象に行きついてしまうのではないか、という予感がする。

昆田須美子の2作品に見られるこのような特徴は、作家が普通の風景画に飽き足らず、新しい工夫を凝らした跡ではないかと考える。それは作家自身の自己努力によってもたらされたものであろう。キュビズムやモンドリアンの平面分割などを単に模倣するなら簡単だろう。しかし昆田は真似ではなく、自ら「何か」を求めて模索した結果としてこの2作品を編み出したのだろうと考えた。

昆田の「豚舎」の特質は、同じ景色を描いたであろう♪佐々木博通の「早春の豚舎」と比べてみるとよくわかる。佐々木作品のほうは、より写実性が強く、落ち着いた風景画である。変えてゆくのだけが能ではなく、このように既存のスタイルの中で深みを求めるのも一つのいきかただと思う。

面白いと思ったのは♪山口俊子の絵画にコラージュを施した作品だ。「クラシック」は音楽を題材としており、楽譜がコラージュされている。しかしその手法は時々見かけるのでさほど新鮮味がない。面白かったのは「アップルの庭にようこそ」だ。これは林檎を題材としていると同時に、企業のアップル社も暗示している。そして画面右手にはアップル社の株価にふれた新聞記事がコラージュされているのである。何と楽しい作品なのだろう。

楽しい展覧会だった。

2013年7月25日 (木)

糸井邦夫 情景画展

「糸井邦夫 情景画展」(art Truth:横浜)に行った。


001

糸井邦夫の作品は同ギャラリーで過去に2回観ている。2010年の展覧会では俳人・尾崎放哉の俳句を題材とした版画が展示されていた。そこで「尾崎放哉の詩」という画集も展示即売しており、1冊を購入した。

また2012年には今回と同じテーマ(情景画)の展覧会が開催され、動物画などを楽しんだ。

そして今回は陶器で作った小さな額に絵を嵌め込んだ作品など、また違った面白さがあった。案内はがきに採用された「優しい女」はタイトルも絵も美しかった。

2013年7月24日 (水)

美術アーカイブ:2000年(23) ベッティナ・ランス写真展

「ベッティナ・ランス写真展 イエスの生涯」 (小田急美術館)の回想。

001

「フランスの女性写真家が挑む現代の宗教画」という副題が、地味だが具体的に展覧会の内容を表している。新約聖書から約100のシーンを選び、無名のモデルを使って映像でそれぞれの場面を表現した作品群だ。

チラシには「最後の晩餐」という作品が採用されていた。キリスト教徒であってもなくても、これがどのような場面で、時代的にはいつ頃のことなのかはほとんどの人がイメージを持っているだろう。その先入観を抱いてこの作品を観ると、違和感を覚えるはずだ。

キリストらしき人物の周囲に集合している弟子らしき人物は13名ではなく12名だ。当時は存在しなかったはずのチェロが演奏されている。上のほうを見ると、当時は無かったのではないかと思われる四角いガラス窓がある。テーブルの下を見ると、キリストらしき人物はスニーカーを履いている。

002

これは現代の風俗(服装、住居、楽器などを含む)で聖書の世界を追体験することを狙ったものであろう。独特なアイデアだ。

003

半券には、チラシの表・裏に掲載されていない作品「新しいイブ」が刷られていた。チラシとの重複が無いという点で努力賞を贈りたい。

2013年7月23日 (火)

美術アーカイブ:2000年(22) ギュンター・グラスと現代展

「ギュンター・グラスと現代展」(神奈川県立近代美術館 [本館])の回想。

001

「ノーベル文学賞作家と美術家たちとの競演」という副題が示すように、ギュンター・グラスはノーベル賞受賞作家であると同時に版画家でもある。この展覧会は、多才なグラスと8人の美術家の作品で構成されたものだ。

理由はわからないが、私はこの展覧会の記憶が飛んでいる。地味な内容だが、私の好きな幻想寄りの作品もあったらしいので、覚えていて良さそうなものだが、なぜかメモリーが消去されている。

007

同時に展示された他の作家8人のなかでは、草間彌生が有名だ。草間作品はあまり好みではないが、年齢を感じさせない旺盛な創作力には敬意を表したい。

他に河口龍生がいる。河口の個展は覚えていたので、自分で自分のブログ内検索をかけてみたら、2009年の12月、東京国立近代美術館で開催された個展に行った記事があり、思いだした。今回の展示の中で種子を宿した枯れ木などがあると冊子に書いてあったが、個展でも同類の作品が展示されていたことをよく覚えている。

003

この展覧会を渋くまとめた学芸員さんの力は大きいと思う。よく覚えておらず、申し訳なく思う。

2013年7月22日 (月)

美術アーカイブ:2000年(21) 現代作家6人の小品展

「現代作家6人の小品展」(ギャラリー夢松洞:鎌倉)の回想。

001

これは、それぞれの個性が際立つ6人の若手作家のグループ展だ。上は同展に取材した毎日新聞の記事「かながわ ワイド」(2000年10月4日)。文字が小さくて読みづらいのでポイントを書き写してみる:

♪飯村悦男:顕微鏡でのぞいたトンボのイメージ
♪岩田  眞:リズムや動きをエッチングで表現
♪タカハシタツロウ:カンバスに油性色鉛筆で色のリズムを表現
♪瀧本光国:水が流れるような木彫りの女神像と初めての木版画
♪辻けい:和紙にカイガラムシで染めた絹糸を何層にもすきあげた
♪鍋島正世:人物や風景をリトグラフにコンピュータ処理

このような同時代のアーティストとその作品に触れる展覧会はとても面白い。

2013年7月21日 (日)

利根山光人展

「シリーズ<現代の作家> 利根山光人展」(町田市立国際版画美術館)に行った。

004

「反骨の画家」とか「バイタリティーを求めて」というキャッチフレーズが書かれているが、これらの言葉が利根山の創作活動にマッチしていると思った。チラシ上の「フィエスタ」はメキシコに渡った利根山が伝統行事の活力に創造の源を求めた作品だし、下の「ヒロシマシリーズ A.M.8.15」は文字通り戦争の悲惨さをマイナスの動力源としてキャンバスにぶつけたものだ。

この展覧会では配布された小冊子が充実していて鑑賞の助けとなる。

006

上の「Viva Mexico」は、やはりメキシコをテーマとしたものだが、こちらはエイゼンシュタインの映画「メキシコ万歳」に触発されて制作されたシリーズだ。下の「鷲」もメキシコ体験を下敷きにしている。

利根山作品の特色は、読売アンデパンダン展出品の頃の抽象構成をベースに、メキシコ体験などの活力を上乗せしているという点だと考える。初期の作品「骨の歌」が小冊子に紹介されている。

001

上記の考え方を言い換えれば、利根山作品は数学的・構成的・抽象的な側面と、それを覆い隠すような土俗的・熱情的な側面が融合しているということになるだろうか。

そしてそれは愛するコンスタンティン・ブランクーシの彫刻作品の特質と相通じるものがあるのだ。私が利根山の作品にある種の親近感を感じたのは、どうやらそのあたりに起因していると思う。

005

なお利根山の作品は、2009年に開催された「利根山光人とマヤ・アステカの拓本」(世田谷美術館)で初めて接したと思う。その時は拓本が中心だった。今回は(版画中心ではあるが)利根山の創作活動の全体の流れを振り返る内容だが、拓本の展示は少なかった。そういう意味で良い補完関係が成立した。

2013年7月20日 (土)

ナイトギャラリー

「朱夏のたより」(成城さくらさくギャラリー)の「ナイトギャラリー」に行った。

002

ナイトギャラリーは、昨年までは金・土2夜連続(1回)の催しだったが、今年はなんと7月のすべての金・土(4回・合計8日)に増強されていた。これだけ開催して戴けば、都合がつかずに行けないということもない。嬉しい限りである。

目を引いたのは「笹尾の間」。この作家の作品は理屈抜きに楽しい。

003_2

同行した即興演奏の相方は福井江太郎の駝鳥の絵に惹かれたらしい。

003

若手の作品も良かった。それぞれ特色があり、ベテラン画家に劣らぬ魅力を感じた。

003_3

チラシには掲載がなかったが、今回の展示の中では荒木享子の静物の作品が心地よかった。私の趣味にぴったりだった。9月末から10月にかけて中村英生・荒木享子 二人展が予定されているので楽しみだ。

チラシ裏面にはナイトギャラリーのシンボルとしてこんなイラストも・・・

003_4

ワイン美味しかったです。ありがとうございました。

紀声会コンサート

第36回 紀声会コンサート(横浜みなとみらいホール 小ホール)に行った。

001

妻ジョアンナ(仮名)もピアノで出演したし、声楽の専門的な事はわからないので、演奏技術に関しては何も書けない。例によって演奏以外の事で感想を書いておこう。

***

運営面で課題がいくつかあった。段取りの悪さが見られたが、これは主催者側も気が付いていたし、ご愛嬌という感じだった。問題だったのは照明である。

1曲当たりの演奏時間が長い場合、例えば前半と後半で交響曲を1曲づつ演奏するようなコンサートの場合は、開演前と休憩時間にプログラムをひもとけば良い。この場合は演奏中は客席が暗くても問題はない。

それに対して今回のようなコンサートでは、演奏者の数が多く、かつ観客が初めて接する楽曲と演奏者が多いようなコンサートではステージ毎にプログラムを見たいという希望が多いはずだ。しかし客席側が暗いのでプログラムを読むことができない。これが問題なのである。

しかも今回は2度ほど場内アナウンスがあり、演奏者と曲目についての変更が告げられたが、その場合もプログラムが暗くてよく見えないため、変更内容を理解しにくいということがあった。

解決策はあるだろうか?私はいっそのこと最初から最後までステージと客席の照明をつけっ放しにすればどうかと考えた。しかしこの方法だと、演奏者の立場に立てば、観客がよく見えすぎて気が散るという問題が起こるであろう。痛し痒しである。観客にも演奏者にも納得して戴ける方法はないものであろうか?

***

なお演奏について書かないつもりだったが、今回際立っていたことがあったので書いておこう。それは第1部に登場した若手と後半のベテラン勢との相対的な差がこれまでより縮まっていたのではないかという点である。

これは、若手が成長しベテラン勢が現状維持だったからであろうか?あるいは若手は現状維持でベテラン勢に衰えがあったからであろうか?

私は上記のどちらでもなく、若手もベテランも両方とも成長したが、その成長率に差があったと考える。イメージでいうと(厳密な数字ではないが)ベテランの成長率が1.1であったのに対し、若手は1.5だったので両者の差が縮まったというわけだ。

このようにして全体のレベルの底上げがなされたと思う。素晴らしいことだ。お疲れ様でした。

2013年7月17日 (水)

美術アーカイブ:2000年(20) 金山康喜展

「青のリリシズム 金山康喜展」(小田急美術館)の回想。

001

抽象好みの私が愛する具象画家の一人だ。金山の青は佐野ぬいの青に通ずるものがある。佐野ぬいが抽象に青を注入したのに対し、金山康喜は具象で青を活かして見せたというわけだ。半券に採用された「食前の祈り」(1950)も画面全体を青が支配している。

先日書いた四谷シモンの記事でふれたが、今回も半券の裏面に作家の紹介が記されていた。

002

よくまとまった紹介文だと思う。そこに書かれたポイントを列挙するだけで、金山康喜の画家像が浮かび上がってくるから。

♪(美大ではなく)東大・同大学院(経済専攻)に学ぶ。
♪猪熊弦一郎主宰の「純粋美術研究所」に入る。
*猪熊も大好きな画家だ。
♪(美大ではなく)仏ソルボンヌ大学に留学(経済学専攻)
♪フランスでも学業のかたわら絵を描く。
♪アンデパンダン展に出品した作品が仏国買い上げに。
♪フランスで気鋭の若手画家として期待され始める。
♪帰国し銀座で個展を開催するが1959年に33歳で急逝。

以下、購入した絵葉書を紹介しよう。

「聖ユーレリウスの器」 (1949)は机、椅子、壜、、コップ、ヤカンの位置関係、大小関係が自由奔放で構成感を保ちつつ、楽しい世界を現出させている。

003

「静物O <鏡の前の静物>」 (1956)は得意の青を封印して描いたようだ。それでも色彩感覚が素晴らしい。構成感も心地よい絵だ。

005

この展覧会は本当に行って良かった。

2013年7月15日 (月)

川上 識子 遺作展

「川上 識子 遺作展 –23年の時空を超えて-」(巷房)に行った。

001

川上 識子(つねこ)の主たる作品はろうけつ染めだ。案内葉書に採用された石庭を描いた作品をはじめ数々のシックな作品が展示されていた。目にとまった作品に一言づつコメントを付けてみた:

♪「初夏の装」
赤、青、黄、紫、白の5本のあやめ(?)が描かれていた。これは空想の風景ではないかと思った。実際には1本づつ色の異なったあやめが5本並んだ光景は存在しないと思うからだ。しかし不自然さを全く感じさせない。人工的風景でありながら、極めて自然に感じられるのだ。

♪「帰路」および「風」
どちらも朱色を基調とした画面にエキゾチックな女性が描かれている。この2作品を観て田村能里子の絵画作品を想いだした。

♪「雪の日の幻」
これは和服にろうけつ染めを施した作品だ。屋根瓦が並んだ構成は福田平八郎の「雨」を想起させる。単純だが奥深いものを秘めている。

♪「藍染狂言肩衣」
手前に草花が並び、遠景に山々が折り重なっている。数学的に計算した構図ではないと思うが、全体として不思議な調和があり、心地よい構成感がある。

ろうけつ染めの作品をじっくり観たのはこれが初めてだった。こんなに素晴らしいものだとは知らなかった。作家の力量によるものかもしれないが。

2013年7月14日 (日)

ある星のつながり

「ある星のつながり 川本 清が愛した作家たち 其の八」(gineta:藤沢)に行った。

001_2

故・平松敬子の平面作品の前に立ったら後ろで声がした。

声:楽しい作品でしょ?
私:はい。
声:去年の「其の七」も観に来て下さったでしょ?
私:ええ。今回のこの作品、空き缶が貼ってあって面白いですね。
声:私そうやって遊ぶの大好きなの。
私:あちこち貼り付けてあるのに全体はすっきりしてますね。
声:ありがとう。
私:どのくらいここにいられますか?
声:あら、もう行かなきゃ。こう暑いと私達も疲れるのよ。
私:じゃあ私もそろそろ失礼します。

上記の会話は実際に起きたことではなく、私の創作である。でも仮にそのような現象が起きたとしても、平松敬子さんなら怖さが感じられないだろう。彼女は私たちをいつも見守ってくれているような気がする。アートのセンス抜群で、人柄も素晴らしい方だった。

横浜市イギリス館 サロンコンサート

「サロンコンサート」(横浜市イギリス館)に出演した。

001

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲の連続演奏を終え、ホッと一息と思ったらこんどはモーツァルトだ。ベートーヴェンもさることながら、アマチュアがモーツァルトの室内楽を人前で演奏するのは無理ではないかと思い、反対したのだが仲間に押し切られた。しかも今回は有名な「ハイドンセット」のト長調とニ短調という広く知れ渡った名曲なのでなおさらだ。

実は、私は自他ともに認める「モーツァルト嫌い」なのだ。モーツァルトは優れた才能を持ち、作曲のうえでも新機軸を打ち出し、結構アヴァンギャルドな事もしている。私はそのような点でモーツァルトを尊敬している。それにもかかわらず、好きになれない理由を一言でいうと「譜面づらが悪い」ということになる。その詳細はいずれ「音楽私論」に具体的な例を挙げて述べる予定である。

今回は演奏が大変で理屈をこねている場合ではなかった。聴きに来て下さった方々、ありがとうございました。

2013年7月12日 (金)

Rainbow

「6th Rainbow」(ギャラリー・コンセプト21:北青山)に行った。

001

案内葉書やネットを読むと、これはASABI(阿佐ヶ谷美術専門学校)の絵画科に学んだ仲間たちが年齢・経歴を超えて共同で開く展覧会という説明が書いてある。作家名も飯坂郁子を先頭に五十音順に並べられ、上下の差をつけずフラットなグループのあり方を示している。

今回展示された10人の作品はほとんどが具象で淡い色彩が特徴的だった。一人一人の作品を個展などで別の場で観たら、非常に似ているように見えるだろう。その点、今回のように全員の作品を1つの会場に並べて展示すると、それぞれが微妙に異なる性格を帯びていることが明らかになる。各人の個性が見えてくるのだ。このような点がグループ展の醍醐味であろう。

年齢・経歴が異なるということは、同期で学んだ仲間は少ないのであろう。卒業後、「ASABI」というキーワードを軸に後から知り合った同志が多いグループだと思う。従って、悪い意味で「群れる」ことがなく、いい意味で「コラボする」関係が築かれたのだと考える。

楽しい展覧会だ。次回は第7回、ラッキーセブンだから大いに個性を発揮してもらいたい。

2013年7月 8日 (月)

音楽アーカイブ:編曲事始「リゲインの歌」

今からほぼ四半世紀前の1989年、一世を風靡したテレビのコマーシャル「リゲインの歌」をピアノ伴奏付き混声合唱に編曲した。私の記録によると、これがまとまった編曲作業の最初であった。

当時所属していた音楽同人SAPAのメンバーに歌ってもらい、結構ウケた。ピアノは勿論、妻ジョアンナ(仮名)。

それ以前も編曲をしなかったわけではない。しかしそれらは断片的だったり、完成度が極端に低かったりで、自分としても記録に残したくなかったのだろう。当時書き散らした五線紙をひっくり返しても、これといった「作品」は見つからなかった。

この「リゲイン」に力を得て、その後編曲活動も充実して良さそうだったのだが、なぜか次の編曲まで8年もの歳月が流れている。どうしてこんなに間が空いたのだろうか?その頃、作曲活動は(質はともかくとして)結構盛んだったのだから、なおさら不思議だ。

2013年7月 7日 (日)

音楽アーカイブ:パッサカリア

整理番号15番「パッサカリア」は1991年に作曲した。文字通り低音で繰り返されるパッサカリア主題に載って高音が自由に歌い継ぐという形だ。私はこの曲を7、9の和音の連続で作った。そうすると若干ジャズ的なたたずまいとなった。

これまで私が作った曲はバッハ、ドイツロマン派、ドビュッシーの非機能和声の間を浮遊していたが、今回はその傾向から少し外れた路線となったのである。

初演は7年後の1998年、音楽同人SAPA公演の際、妻ジョアンナ(仮名)に弾いてもらった。再演も妻だったが、3回目は2000年におけいこ発表会で娘エレーナ(仮名)が弾いてくれた。こんな嬉しいことはなかった。

以上のように私にとっては思い出深い曲だが、それ以来演奏の機会がない。曲の響きとしては悪くないと思っているのだが、演奏技術を易しく作ったので大曲のオーラが無い。それが原因かもしれない。

「ピアニストがドレスで着飾ってピアノに向かうと、観客は無意識に技巧的に難しい曲を期待するから、こういう易しい曲を弾くと違和感がある」というような声もあった。

結論として、この曲は家庭やサロンで気軽に流すサティのような曲と位置付けるのがいいかと考えた。

マルティヌーの知らなかった側面

「山中まりえ ヴィオラリサイタル」(横浜市栄区民文化センター リリスホール)に行った。

001

以前から聴いてみたいと思っていたマルティヌーのヴィオラ・ソナタ第1番を聴いた。私はマルティヌーの力強さがどこから来るのか確かめたいと思い、弦楽四重奏曲7曲のうち、第2,5,6番の小型スコアを買い込んで調べてみたことがあった。結論として、(特に速い楽章において)八分音符を上下させることによって生じる律動性がこの力を感じさせる源ではないかと思った。

今回のヴィオラ・ソナタ第1番を聴いてみたら、意外とおとなしく牧歌的に感じられた。これまで抱いていたマルティヌーのイメージから少し離れたわけだが、これは多作家であるマルティヌーの一つの顔なのだろう。

ヴィオラ奏者、ピアニスト共に一流メンバーなのに、ピアノの響きが悪く演奏としては物足りなかった。これはホールの構造のためと思われる。弦楽器はよく響くがピアノは音が割れるのである。その証拠に、プログラムに2曲含まれていた無伴奏の曲ではヴィオラが美しい音色を奏でていた。

なおプログラム最後のブラームスのソナタ(オリジナルはクラリネットとピアノ)は以前私が所属していた音楽同人SAPAのコンサートにおいて、崎川氏のクラリネットで演奏された曲だ。懐かしかった。

2013年7月 3日 (水)

KURO墨ドローイング展

「シニフィアとシニフィエ KURO墨ドローイング展」(art Truth:横浜)に行った。

001

好みのタイプの作品が並んでいて良かった。私はカリグラフィか、それに似た細い線の構成が大好きだ。

KUROのいくつかの作品を観ていて不思議に思ったことがある。私は極端な抽象好みなのだが、今回のKUROの作品に限っては具象作品のほうが好ましく感じられた。例えば「キッチン」という具象絵画に近い作品があったが、今回の展示の中では最も気に入った。

その理由はわからなかった。今後、他の展覧会、例えばKUROも出展する「未来抽象芸術展」(全労済ホール/スペース・ゼロ:新宿、7/8~18)でKURO作品に再会し、その不思議さを解く鍵を見出したい。

2013年7月 2日 (火)

音楽アーカイブ:消えた初演「フルートとピアノの為のシチリエンヌ」

整理番号14番で初の初演を果たした私は、それより前に作曲した整理番号11番「フルートとピアノの為のシチリエンヌ」の初演にこぎつけた。音楽仲間のフルートと妻ジョアンナ(仮名)のピアノで満を持してコンサート当日を迎えた。しかし・・・

その初演は露と消えてしまった。折悪しく上陸した台風により、コンサート会場として確保していた施設の責任者から中止命令が下ったのだ。人々の安全第一ということで、この決定には従わざるを得なかった。こんな事もあるのだ。

結局それから4カ月後、別のコンサートにてピアノは同じく妻ジョアンナ、フルートは別の奏者に入れ替わってようやく初演を果たすことができた。作曲を完成させてから7年もの歳月が流れていた。

その後、この「フルートとピアノの為のシチリエンヌ」は2回演奏の機会があったので、累計3回ステージで音が鳴ったことになる。そしてその3回目の演奏メンバーが後にも先にもこれっきりという珍しさだった。妻ジョアンナがピアノではなくフルートを吹いたのだ。

ピアニストのジョアンナはある時期趣味でフルートを習ったことがあった。そのおけいこ発表会で「フルートとピアノの為のシチリエンヌ」を取り上げてもらったのだ。そもそもこの曲は、フルートの技巧という点では難しく作ってなかったので、初心者の妻でも取り組んでもらうことができたのだ。

しかしその後は再演の機会がない。この曲はどうもフルート奏者にあまり好んでもらえなかったらしい。その理由を考えてみたら、どうやら音域が低すぎるという点が問題だったことに気が付いた。低音域・中音域ばかり動き回ると地味でフルート独特の華やかさが失われる。私はそのへんの事を重視していなかったのだが、それが響いたのだろう。

その反省のもとに、この曲の続編「シチリエンヌⅡ」を音域を上げて作ってみたのだが、それに関する話は後日の記事にまわそう。

2013年7月 1日 (月)

音楽アーカイブ:初めての初演???

このシリーズは昨年の8月に「大学~初めての作曲」をアップしてから1年ぶりになってしまった。「初めての初演」と書くと何だか判じ物のようだが、ややこしい事ではない。自作曲を聴衆の前で演奏した最初の機会という意味だ。

大学時代に作曲を始めてから十数曲作ったが、人前で演奏したことは無かった。そして記録をひもとくと、整理番号14番が初めて披露した曲だったようだ。ちなみに私は作品番号は付けず、作った順番に整理番号を付けている。素人なのに偉そうに作品番号というのが恥ずかしいからだ。

この「整理番号14番」は友人の結婚を祝い、披露宴の席でチェロ独奏にて披露した曲である。曲名もずばり「ウェディング・ソング」。メロディーに重音奏法による和声を付けた簡単な曲だ。

特記したいことは、新郎がヴィオラ弾きだという点。ヴィオラの弦の配列は、チェロのちょうど1オクターブ上だから、運指が似ている。私はそれを利用し、この曲を1オクターブ上げてヴィオラの譜面に書き直し、それを新郎にプレゼントしたのだ。新郎は時々この曲をヴィオラで弾いてくれたらしい。嬉しい限りだ。

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

最近のトラックバック