« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月30日 (日)

大工・齋藤 登展


「第7回 大工・齋藤 登 展」(湘南西脇画廊:藤沢市鵠沼)に行った。毎回楽しみにしている展覧会だ。

003


「“かたち”になった無垢材」という副タイトルが示すように、齊藤 登は木材の「素材感」を活かした作品を産み出している。

今回の圧巻は一輪挿しに現れた仏の像。実はこれは天然のままの紋様であり、人為的に作ったものではないと聞いた。自然は時に粋なことをするものだ。

他には木材で作ったクラッチ・バッグも珍しかった。布を貼りあわせているが、外側は屋久杉などを加工して作ったものだ。極めてユニークな製品といえよう。

大工・齋藤 登の確かな腕と遊び心が一体となった作品群は楽しいのでお勧めです。小田急線・鵠沼海岸駅から徒歩すぐ、静かな裏通りにある画廊です。

アート未来派展

「アート未来派展」(国立新美術館)に行った。読売新聞の招待券を入手したのだ。読売新聞さん、いつもありがとうございます。

004

ただ残念なのは、この展覧会は興奮度がいま一つ高まらなかったことだ。国際公募の展覧会なので、世界各国から気鋭の作家がこれでもか、という秀作を送りこんで来るという期待を抱いていたのだが、その期待が大きすぎたらしい。応募者が若い層中心で、技術的に発展途上であり、インパクトを受ける作品に出会えなかったのだ。

002

逆に、このような展覧会の意義は、若い作家が国の枠を超えて競い、その中から有力な新人が育つのを助ける、いわゆる「孵化器」としての役割なのであろう。今後伸びそうな新人に目をつけ、支援・育成することを目的とするパトロン候補者には意味ある展覧会なのかもしれない。

素人が楽しむために行く展覧会とは違っていた。また一つ経験値を積んだ。

第13回目のトマソンズ

「初夏の夕べの室内楽コンサート」(横浜市旭区民文化センター・サンハート音楽ホール:二俣川)に出演した。

001

ジョヴァンニが出演したセションを列挙する:

♪初夏のインプロヴィゼーション
即興ユニット「トマソンズ」(阪本テツのカーヴドソプラノサックス&バスクラリネット、ジョヴァンニのチェロ&ピアノ)に都築哲平にパーカッションで助っ人として参加してもらった。自由な即興を行い、最後に有名な「In a Sentimental Mood」をトマソンズ風にアレンジして締めくくった。トマソンズは今回が通算13回目の演奏であり、都築哲平を加えた演奏は2回目となる。

♪器楽合奏
ビゼーの「カルメン」と「アルルの女」から抜粋した2曲メドレー(金子悟編曲)を6人の室内楽アンサンブルで演奏した。

暑かったので打上のシャンパンとワインが美味しかった!

2013年6月29日 (土)

介護施設での演奏

管楽器の相方・テツと組んでいる即興演奏ユニット「トマソンズ」の第12回目のステージは神奈川県内にある介護施設での演奏だった。

高齢の方に聴いて戴く演奏なので、このユニットが通常演奏しているアヴァンギャルドな即興は相応しくないという制約があった。そのため即興を極力抑え、メロディーがはっきりした曲を演奏することにした。

演奏したのは次のジャズ3曲:
♪Go Back to My Country
♪You Don’t Know What Love Is
♪In a Sentimental Mood

以上に加え、最後に全員で歌を歌おうということで「浜辺の歌」の伴奏を弾いた。皆さん大きな声で歌って戴いたので良かった。

なお私は主としてクラシック音楽を土台として音楽に親しんできたので、ジャズの高度な和声を操ることができない。今回も一応ジャズの曲を演奏したといえるかもしれないが、和音の部分は譜面に書いて演奏したのだ。

それでは不満足であり、コード記号で和声を埋めるとか、コード記号すら無くても即興で和声を付けるとか、そういうレベルになりたい。本来ジャズとはそういう音楽のはずである。しかし現状では、そういう事を行う能力が不足している。

今後の課題である。(達成するのが非常に困難な課題ではあるが。)

2013年6月27日 (木)

美術アーカイブ:2000年(19) 荒木 経惟 展

荒木 経惟 展 ラブポートレイト」(エプソンイメージングギャラリー エプサイト:新宿)の回想。

001

アラーキーというと独特のエロティシズムが相場だが、この展覧会ではその固定観念を覆す作品に出会った。

チラシに採用された花の写真がそのうちの一つだ。これは何という作品であろうか。多くの花弁が絶妙なコンポジションを形成している。左上から右下にかけて対角線上を走る白い光もその構成感を強めている。花はすべて赤色に見えるが、よく観察すると一つ一つの花の色彩、形状、新鮮度に差異が見られる。

これは一つの花束ではなく、異なる場所で異なる環境に置かれた花を一輪づつ拾い集めて組み合わせたとまで思った(実際は違うかもしれないが)。

アラーキー作品の構成感とは私のなかでは大発見だったわけだが、チラシの右側を飾る女性の姿はなんと呪術的なのだろうか。

002


この作品ではエロティシズムよりシャーマニズムのような感覚が勝っているように感じられた。荒木 経惟の写真の奥深さ、恐るべし。

2013年6月25日 (火)

美術アーカイブ:2000年(18) 四谷シモン-人形愛

「四谷シモン-人形愛: 時のない国で、永遠を生きている。」(小田急美術館:新宿)の回想。

001

百貨店での展覧会は1970年代に勢いがあったように思う。その頃は西武百貨店を中心に、新しいアートシーンを楽しむ場としてデパートの企画が美術館や画廊と拮抗していた。それから四半世紀が経過すると、百貨店のアートイベントに陰りが見え始めてきた。

小田急百貨店としても時代の趨勢を読み、このままではジリ貧になるという危機感を抱いていたのではないだろうか。そして、これは推測だが、この四谷シモンの展覧会を現状打開の起爆剤として企画したのではないかと思った。

002

四谷シモンの人形を好きかと聞かれて、素直にイエスと答える人は多くないと思う。表現のどぎつさに辟易し、異端の趣味に恐れをなすからだ。しかし四谷シモンの作品には、そのようなハンディを背負っていても、人を惹きつける魔力がある。そう、単なる力ではなく魔力だ。

この展覧会を企画した人も、四谷シモン作品のそのような「異端力」が集客につながると期待したに違いない。シモン・ドールは、間違えると評判を落としかねないリスクと共に多くの観客を集められるかもしれないという「両刃の剣」の効果に賭けたのであろう。

四谷シモンはハンス・ベルメールの人形作品に衝撃を受けて自分でも同じような人形を作り始めたと聞く。確かにベルメールの影響は色濃いが、ベルメールの作品が退廃的な女性的エロスを醸し出しているのに対し、四谷シモンの作品はより耽美的で両性具有的である。

この展覧会の隠れた貢献者として半券を挙げたい。

003


半券のデザインも一目を引くが、その裏面に注目して戴きたい。

004

半券の裏には、チラシ裏面に書かれた四谷シモンとその作品の簡単な紹介が、そのまま掲載されているのである。このような半券は非常に珍しい。もしかすると、周囲の反対を押し切って作ったのではないだろうか。このいきかたが多くの来場者に効果的であったかどうかわからないが、このような斬新な試みをした企画者に拍手を送りたい。

2013年6月24日 (月)

美術アーカイブ:2000年(17) 所蔵 日本画展

「所蔵 日本画展 -伝統と革新-」(神奈川県立近代美術館 鎌倉 別館)の回想。

001

これは本館で開催された「ウルフ・トロヅィッグ展」と同時開催の展覧会だ。レコードに例えると「B面」ということになる。確かに別館は展示スペースが狭いので二次的な催しという色彩が濃い。

しかし別館で開催される展覧会も観るべきものが多くある。ついこの間観た「野中ユリ展」などは本館をさておいて行ったわけだから、A面・B面が逆転したわけだ。

そういう視点でこの展覧会を想い出してみると、内容的には結構充実していたと思う。有名どころでは平山郁夫「仏塔と住居址、楼蘭遺跡」、加山又造「凍れる日輪」、片岡球子「幻想」、高山辰雄「夜」「静物」「風景」など、そうそうたるメンバーが顔を揃えていた。

私が大好きな堀 文子の「蓮」もあった。好みではないが幻想的な近藤弘明の宗教色が強い「浄夜」も展示されていた。

地味ではあったが、印象強い展覧会だった。

2013年6月23日 (日)

美術アーカイブ:2000年(16) ウルフ・トロヅィッグ展

「ウルフ・トロヅィッグ展  北欧の風と鳥」(神奈川県立近代美術館)の回想。

001

この画家は有名ではないので簡単な紹介を書いておこう。
♪スウェーデン生まれ。自国の美術学校で学ぶ。
♪パリに移り、美術界デビュー。同時に版画を学ぶ。
♪サン・パウロ・ビエンナーレにはスウェーデン代表で出品。

この展覧会では「会場案内」という冊子が配布されたが、これが小さいながら優れもの。会場どころか作風などに関して掘り下げた解説が書いてある。

006

興味深かったのは、トロヅィックは鳥を好んで描いたが、それは実際の鳥の模写とは異なっていたという話。彼は最初は写生かもしれないが、それを必要に応じて画面上で修正を施し変化させたらしい。色彩に関しても同様とのこと。

このように自然を「再構成する」という点がある意味でキュビズムなどの方法に類似していて、それが大変興味深い。特異な地位を占める画家といえよう。

004

なおチラシ、冊子、半券はそれぞれ異なる作品が採用されていた。細かい点だが、こういう配慮は展覧会の満足度を引き上げてくれる要因となる。

2013年6月20日 (木)

野中ユリ展

「野中ユリ展 美しい本とともに」(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館)に行った。

001

通常は本館を観てから別館というコースを辿るのだが、今回は本館に寄らず、最初から別館を目指した。本館では生誕100年の松田正平の個展が開催されていた。この巨匠の展覧会をパスしたのは大変失礼だと思ったが、私の趣味に適ったほうを優先させてもらった。

003

野中ユリ展は幻想的な版画を観ることができるので大いに期待して行った。そして期待は裏切られなかった。「こういう感じの作品を観たいなあ」と願い、結果的にその通りになったのだから嬉しい。

野中ユリの作品はコラージュやデカルコマニーが多い。それも私の大好きなシュール寄りの作品が中心だから楽しい。一部の作品は明らかにマックス・エルンストの模倣だと思われた。しかしそれは野中ユリの芸術のレベルを低くするものではない。真似であっても、作品の完成度が高いのだ。

002

そして野中ユリ独自の個性あふれる作品も多く存在する。アイデアと制作技術の両輪がうまくかみ合ったアーティストだと言えよう。

入場料250円でこれだけ楽しめる展覧会は有難い。会期も9月1日までと長い。特に幻想好みの方にお勧めします。

2013年6月18日 (火)

「世界初」の条件

先に告知した「アトリエ・ラ・ヴィ Ⅱ 発表会」(リラホール:藤沢)が終わった。盛り沢山の内容で疲れたが、充実した時間は貴重だった。

001_2

語りの人とコラボした「平家チェロ」は世界初の試みだと思っていた。ところが調べてみたら平家物語を語りとチェロ演奏で進める催しが過去に行われていたことがわかった。チェロは入間川正美。実は私はこの演奏家を知っており、演奏も聴いたことがあったのだ。ただ平家物語にかかわる活動をしていたとは知らなかった。

入間川正美は即興演奏を中心に活動している(と思う)。1度だけだが私が聴いた限りでは特殊奏法を織り交ぜた抽象的な音構成による即興だった。もし平家物語での演奏が入間川がよく弾く即興と同じなら、おおよそどんな音が出ていたのか推測できる。

それに対し今回の私の「平家チェロ」は次の2つの要素で成り立っている:
♪1. チェロの弦をギターのピックで弾き、琵琶のような音を出して合いの手を入れる。
♪2. 盛り上がる場面では、その状況にマッチした古今東西の名曲の一部を暗示的に弾く。例えば平家の美しい女性が登場する場面では「今様」、那須与一が登場する場面ではリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」という具合である。

上記の2つの要素を取り込んでの演奏という条件を設定すれば、世界初の試みになるのではないかと考えたのだ。後発で悔しいので、せめて特定の条件下で面目を保ちたいという負け犬の遠吠えかもしれないが(苦笑)。

それから念のために追加するが、入間川正美は私なんぞより遥かにチェロが上手である(再び苦笑)。

またチェロの弦をギターのピックで弾くというのは、弦を著しく痛める結果となる。(私の楽器と弦は大したものではないので、あまり気にしていないが)。ピアノに例えれば、内部奏法とかジョン・ケージが考案した「プリペアード・ピアノ」みたいなものだ。この点において、私の活動は邪道と言われても仕方ないと思っている(三たび苦笑)。

以上のような要因を含めて考えた場合、果たしてこの「条件付き世界初」を容認してくれる人はいるのかなあ・・・。

末永敏明 絵画展

末永敏明 絵画展(成城さくらさくギャラリー)へ行った。

001

末永敏明の絵は楽しい。今回の展覧会のDMで送られてきたチラシを一目見て、その魅力に引きつけられてしまった。会場で実際の作品を観たら、もっと楽しかった。

末永作品に接して不思議に思ったことがある。それはある種の様式化ということだ。

末永敏明の絵画には様々な色に塗り分けられた♪地層や、赤い♪斑点がほとんどの作品に登場する。またこれらの「部品」は作品によって異なる役割を担わされる。例えば赤い斑点は海中の風景においては魚が吐き出す息による気泡を、そして野山の風景においては果実あるいは樹木などを表現する。

こう書いてしまうと、末永敏明は限られた「部品」を順列組合せを変えることにより「使い回し」しているのかと思われかねない。実際にそういう側面はあるかもしれない。しかし不思議なことに、数多く並んだ末永作品を順番に観てゆくと、それぞれの作品に個性が光り、決してマンネリズムに陥ったりはしていない。そこが末永敏明の腕前であり、個性なのだろう。

002

この展覧会はお勧めである。会期は6月30日(日)まで。残りあと1週間半だ。

2013年6月14日 (金)

空想の建築

「空想の建築 -ピラネージから野又 穫へ- 展」(町田市国際版画美術館)に行った。

001

展覧会のことは認識していたが、なかなか行く機会がなく時間が経過していた。おなじみF君が心配して連絡してきたので、背中を押された格好で会期終了の前々日に駆け込んだのだ。

私はこのテーマが大好きなので行って良かった。坂崎乙郎の「幻想の建築」(鹿島出版会SD選書)などを読んでいたので既知の情報もあり、過去に観た作品もあったが、新しい出会いと発見があったので有意義だった。

副題にもある通りこの展覧会の主軸作家の一人はジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージだ。私のハンドルネーム(ジョヴァンニ)と同じという親近感がある。しかもピラネージとの出会いは今から36年前(1977年)鎌倉で開催された「ピラネージ版画展」にまで遡る。そのアーカイブ記事は一昨年書いた。
http://giovannikki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-31a4.html

一つ「あれっ?」と思ったことがある。上記の記事では「ローマとアゲル・ロマーヌスの墓所記念物の廃墟」という版画作品を紹介している(再掲)。

005

上記の作品が、今回半券にも採用された作品「古代アッピア街道とアルデアティーナ街道の交差点」と同じなので名称を誤って書いたのかと思ったことだ。念のため購入した絵葉書にもそう書いてあった。

002

しかし、実は上記の記事の記述は正しかったのだ。非常によく似た作品なので同一視しやすかった。よく見ると細部において若干の相異がある(あるいは刷り方に相違が見られる)。

もっとも過去の記事で紹介した作品は「ローマとアゲル・ロマーヌスの墓所記念物の廃墟」中扉というのが正確な記述なのだが、ご容赦いただきたい。いずれにしても、この作品の放つ幻想のオーラは凄まじい。

今回の展覧会では♪野又 穫の作品が面白かった。メイン会場に大きい作品が多数展示されていた他、別室では野又 穫のドローイングが作品集出版に合わせて展示されていた。

003

他には♪阿部 浩のピラミッドに想を得た作品や、コイズミアヤの立体作品など多方面の作品を一堂に集めて展示していたので楽しかった。

2013年6月 9日 (日)

アートアイランズTOKYO

「航路・アートアイランズTOKYO -四谷三丁目-」(CCAAアートプラザ:四谷)に行った。大島などの島々と東京が文化の流れを共有するというコンセプトに基づいた活動の一環だ。

003

会場は廃校を再活用した施設で、学校であった面影が色濃く残っている。教室(であった部屋)に絵画、ビデオアートなどの展示がなされていた。屋外には彫刻の展示もあった。これは岩崎幸之助の作品。

2013_0608_161338cimg0057

これは全景。配管、植物、階段などに作品が取り巻かれることにより、インスタレーションの要素も楽しめる。

2013_0608_161338cimg0055

そして図工室(であった部屋)にてパーティが行われた。

2013_0608_162618cimg0063

飲み物は持ち寄りだが、アーティスト仲間がまかないをしてくれた。その料理がおいしかったこと。アートの交流はノミュニケーションから、という感じがした。

画廊の夜会

毎年恒例となった「画廊の夜会」だ。これまでは金曜日の夜に開催されていたが、今年は土曜日の昼から夕方まで行うというので行ってみた(昼間なので夜会ではなかったが)。金曜日の都合が悪かったので丁度よかった。

001

冊子の案内を見たら日動画廊の「ニコル・ボッテ展」が面白そうだと思い、訪問したら本当に楽しめる作品が多かった。しかし実はこれは困ったことなのだ。なぜかというと、同画廊やギャルリーためなが等、老舗の画廊に行ってしまうと他の小規模な画廊を訪ねる時間が制限されるからだ。

004

この「夜会」のような催しは、有名どころではなく、普段足が向かない小さな画廊を巡り、一つ一つの画廊の個性と良さを認識するチャンスを与えてくれると考える。だから良く知っているところは参画せず、日頃二番手に甘んじている画廊だけが参加した方が意味があると思うのだがなあ・・・。

まあでも、銀座のアート業界ではそれなりに事情があるかと思うので、上記のような考えが有力な意見になるかどうかは疑わしい。いずれにしても、今後この企画がどのように変遷してゆくか楽しみだ。

ところで私が以前から関心が高かったのは「東京画廊+BTAP」だ。毎回地道にしっかりした企画をするというイメージがある。今回も地味だが「呉強 個展」が開催されており、されており、37才という若手の山水画を楽しんだ。

002

同行したブロガー「中年とオブジェ」さんは「一見古めかしい絵画だが、色使いに現代性を感じる」というようなコメントをしていた。私も同感である。このように伝統を重んじてはいるが、同時代性の要素も併せ持つ作家と作品には興味がある。

時間の制約があり、あまり多くの画廊を回ることができなかったのが残念だった。来年はもっと楽なスケジュールを組もう。

2013年6月 7日 (金)

現展

「第69回 現展」(国立新美術館)に行った。かつての少年少女探検隊(略称KST)のメンバーから招待券をもらったのだ。ありがとうございました。

001

会場に入ると、まず最初の部屋(第1室)で驚いた。見渡す限り抽象絵画が並んでいる。これは私のために企画されたようなものではないか。嬉しくて夢中になって観始めた。

このまま最後までいったら、現存するグループ展の中で最高の展覧会になるだろう。そのような期待をもって先に進んだら、さすがにそういうわけにはいかず、具象絵画が混ざり始めた。抽象好みの私だが、具象でもキュビズム、未来派、幻想、シュール、心象風景など愛するジャンルも結構ある。私の趣味に適う具象絵画も見つかった。しかし最初の部屋の抽象オンパレードの迫力は最高だった。

良かった作家・作品名を列挙する(作家名の五十音順。[ ]内はジャンル:記載ない場合は絵画)

♪磯部 陽子「遠い昔の記憶・街」
♪小泉 嘉彦「鼓動『詩』2013」
♪下垣内 岳「Look Post」
♪中村 智子「夕刻の魔B」及び「夕刻の魔C」
♪橋口 典美「2013-5の積層」
♪原  三男「曼荼羅Ⅱ」
♪舟橋 菊男「草花風図Ⅰ」及び「草花風図Ⅱ」[版画]
♪山本 康之「Flow2013(飛流暉)

上記の作家・作品ほどは強い印象ではなかったが、記録しておきたかった作家・作品名を列挙する:

♪秋本 康子「Lux」
♪安藤 昭海「田園の鏡」[写真]
♪飯塚 文子「Hakobune」
♪池田 雅広「dead rose」[デザイン]
♪池田 保久「磯風」[写真]
♪池田和四男「みどりの中に」
♪石川  進「虚飾-13」
♪石田 正明「過去の現在」
♪歌野かず子「天まで昇れ」[工芸]
♪大岩 和子「部屋の空気をかえて」
♪大垣 節子「水の記憶Ⅱ」[工芸]
♪岡垣  彰「渚のトルソー」[写真]
♪久保田晃二「浮遊する化石」
♪栗原五十八「春の旋律」
♪小泉 昌浩「無垢」[工芸]
♪こじまマオ「工業化生産における統一規格商品」[立体]
♪坂口 末美「孔雀の舞い」[写真]
♪佐野瀬梨奈「落下」[版画]
♪城 みどり「散華(さんげ)」
♪菅原  淳「パリの散歩道」
♪高木 叔子「再成」[工芸]
♪高木芙美子「忘れ得ぬ出来事」 
♪炬口 佳枝「共鳴」[工芸]
♪田端 聡美「Outburst」[工芸]
♪中畑 勝美「刻」
♪原田 秀憲「鼎立(ていりつ)」[立体]
♪福士 云子「幻想Ⅱ」[工芸]
♪松永 龍山「螺錨平文輪花幾何文刳鉢」[工芸]
♪宮崎 純子「寒中煖」[工芸]
♪村上 隆吾「スペイン ラマンチャ地方の屋根」[写真]
♪森   洋「春」
♪森本 萌子「群像」[写真]
♪山内 房江「夢月の雑談」[立体]
♪渡邊 聖春「夜の帷」[版画]

その他目を引いた作家・作品:

♪江波戸栄子「青」:ヴァザルリかジョセフ・アルバースに似ているように見えた。
♪大橋 慶子「化石の森」
♪荻野 幸子「赤を織る」:他の展覧会でも観た。
♪鎌田 りん「粒の記憶」
♪北向加奈子「セピアの時」:単なる鉢植えの花なのだが、縦縞のようなものが何となく「透明キュビズム」を想い出させてくれた。
♪木下 福代「なごみ」
♪高橋 孝雄「白い街」
♪永松 陽子「REMINISCENCE9」
♪浜本みつえ「数学と抽象」:いいタイトルだ。
♪藤枝クニコ「母心大悲(ぼしんだいひ)」:良かったのだが、色彩と人物像が田村能里子の作品に似ているように思えた。
♪沼田 ゆみ「白南風」

この展覧会は面白かった。次回もぜひ観に行きたい。かつての少年少女探検隊(KST)メンバーの招待券をくれた人にお願いしてみよう。

2013年6月 5日 (水)

美術アーカイブ:2000年(15) 心象の領域

「心象の領域 寺田コレクションにみる幻想的な具象」(東京オペラシティアートギャラリー)を観た。「テリトリー」の「おまけ」で同時開催していた展覧会だ。

001

おまけと言ってもお菓子のオマケとは格が違う。幻想好みの私としてはメイン会場の「テリトリー」よりこちらの方が面白かった。冊子の表紙を飾った奥山民枝の「旦気」は自分自身が雲海を彷徨っているかのような気分にさせられる。

冊子の裏には野又 穫(のまたみのる)の「Sublime 1」。

002

こういう「バベルの塔」的なたたずまいは大好きだ。建物の上のほうにいくつかある手すりが無い外階段など、現実にはあり得ないところが「幻想見たさ」の心を満たしてくれる。「sublime」は英語で「荘厳な」とか「雄大な」という意味だが、何となくこの作品の雰囲気を表している。

中扉に絵の一部が印刷されていた。

003

これはたぶん落田洋子の作品であろう。アンリ・ルソーのような描き方だ。二人の相似形の人物、鳥たちの相対的なサイズが非現実的だが、不思議と違和感を感じない。幻想絵画の一つのあり方かもしれない。

冊子にギャラリーの大島賛都が「具象絵画の復権」という小論を書いていた。その中に抽象を偏愛する私のような愛好家に釘を刺すような意見があった。その一部を紹介しておこう:

「私たちは、ひょっとすると抽象絵画に意識を向けていた長い間、具象絵画が持つ豊かな表現の可能性を見過ごしてきたと言えるのではないだろうか。」

はい、その通りだと思います・・・。

2013年6月 4日 (火)

松本千鶴 植物画展

「松本千鶴 植物画展」(印象社ギャラリー)に行った。

G011_2_4
G011_1_3

印象社とは展覧会の図録や画集を制作する会社で、松本千鶴の画集「草花に想いをよせて」も同社が手掛けている。

Bd_matsumoto01

今回の展覧会は、その印象社がオープンした画廊で開催されたから、同社と松本千鶴の画集に続く2度目のコラボということになる。画家と図録制作会社のこのような協力関係は喜ばしいことであると共に「美しい関係」と表現したくなる。

松本作品に心を癒される人は多いと思う。今後も色彩は淡いが強い魅力を放つ作品を描き続けて欲しい。

水彩画 みづゑの魅力

「水彩画 みづゑの魅力 明治から現代まで」(平塚市美術館)を観た。絹谷幸二展と一部会期が重複しての開催だった。

003

未知の作家に関しては作品との出会いが新鮮だった。既知の作家の場合はこれまで馴染んできた作品群との比較を考えてみた。作家別に感想を述べる(作家名の五十音順)。

005

♪麻生三郎:「人-8」は若手画家・山内若菜の筆致を想起させるものがあった。麻生の作品を観ていると、なぜか無視できず、アンケートが取られたら、率直にどんな意見を抱いても、オリジナル作品を前にしたら、ただただひれ伏すしかない。
♪大下藤次郎:作家を知らなかった。「早春」は小さい画面いっぱいに並んだ樽が印象的だった。
♪小熊秀雄:文学・美術の両方に通じたマルチ知識人だ。この人の才能はすごいと思う。どちらかというと文学がより得意ではないかというイメージを持っていただ、なかなかどうして絵も達者ではないか。
♪古賀春江:既知の作家。キュビズムやクレーの子供のような幻想の模倣の域を出ない作品ばかりだった。後年の個性ある幻想画と比べると見劣りした。
♪竹中美幸:作家を知らなかった。「やわらかな芽」なんていいなあ。
♪難浪田史男:既知の画家。好きな画家の一人だ。限りなく広がる幻想の世界。いいなあ。♪野見山暁治:既知の画家。今回の展示も悪くなかったのだが、本気を出した作品の中にはもっともっとインパクトが強い作品があったと思う。
♪村山槐多:既知の作家。今回の展示に限らず、私はこの作家が好きになれず、作品もいいと思ったことが無かった。夭折の画家ということで同情票が集まっていると思うが、その要因を取り除いても高い評価を受けるのだろうか?
♪萬鉄五郎:既知の作家。「夕陽の砂丘」は夕焼けに染まった砂丘の色が鮮やかだった。

004

2013年6月 2日 (日)

絹谷幸二展

「希望のイメージ 絹谷幸二展」(平塚市美術館)に行った。

001

絹谷幸二が絵の中に文字を描き込む事について考えてみた。例えばチラシに採用された「銀嶺の女神」は首から顎にかけて「ららら」というひらがなが認められる。このような文字(ひらがな、漢字など)は他の作品のいくつかにも見られる。

漢字なら隣国の人でも読めるかもしれないが、ひらがなとなると日本人しか理解できない。するとその絵の中の文字は、日本人には具体的なイメージを喚起する一方、日本人以外に対しては単なる紋様のように見え、抽象的イメージしか湧き起こさない。

絵が日本人とそうでない鑑賞者で異なって見えるとなると、作品のグローバル化を阻害する要因になりそうだが、作家はそういう事を意識していない様子である。ただ単に自分自身の表現方法を貫き、文字をアルファベットにするなどという中途半端なことはしない。自分の力量に自信があるからだろうか。

002

ユーモラスで楽しい作品が満載の展覧会だった。

2013年6月 1日 (土)

美術アーカイブ:2000年(14) テリトリー:オランダの現代美術

「テリトリー:オランダの現代美術」(東京オペラシティアートギャラリー)の回想。

001

オランダの新しいアートと言うと、まず頭に浮かぶのはピエト・モンドリアンであろう。モンドリアンが完全抽象にたどり着いたのは1914年頃である。今回の作品はほとんどが2000年に産み出されたので、モンドリアンの抽象への入り口から起算すると86年もの年月が経過していることになる(抽象だけが新しいアートというわけではないが)。

では今回の展覧会はどのようなものだっただろうか?残念ながら、あまり良い印象が残っていない。それにはいろいろな理由が考えられるが、最も大きいのはコンセプチュアル的な要素が強いという点ではなかろうか。

そもそもメインテーマの「テリトリー」という言葉がわかりにくい。この展覧会ではテリトリーを「自分を取り巻く空間・領域」と普通に定義し、人間は自分たちのテリトリーをどのように意識しているのか、というのが主眼点だと解説されている。

その定義の枠の中に「寝る」、「跳ねる」、「揺れる」などの動きの要素を注入して「作品」を作るというのだが、ますますわからない。

003

私は本来コンセプチュアル・アートを好まないので、このような展覧会の組み立て方にはなじみにくいという事もあるが、もっと重要なことがあるような気がした。それはコンセプトへの求心力である。

例えばジョン・ケージとかヨーゼフ・ボイスらがコンセプトを唱えると、若干反発したくなるが、結果的に彼らの作品を楽しんでしまう。この差はどこから来るのだろうか?それがコンセプトの求心力という事なのだろう。つまりコンセプトというものは、カリスマ的な「教祖」によって提唱され、維持発展されないと、しぼんでしまうのだ。

002

今回の展覧会の場合、「日蘭交流400周年」というタイミング、東京オペラシティという立地などが若干「カリスマ性」を内包していると思うが、まだ足りない感じがする。参画したアーティストにもビッグネームの人がいなかったし、同時に企画されたシンポジウムでも超有名人の名前は無かった。そのような「非カリスマ性」により求心力が足りなかったと思うのだ。

今回は印象が強くなくて残念だったが、オランダの同時代のアートは今後も味わってゆきたい。できればコンセプチュアル・アートではなく、抽象作品などにて・・・。

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

最近のトラックバック