「アートと音楽 -新たな共感覚をもとめて-」(東京都現代美術館)に行った。

♪セレスト・ブルシエ=ムジュノ「クリナメン」
この作品は大いに楽しめた。NHKの「日曜美術館」でも観たが、テレビより音が美しく響き、陶器の動きとぶつかり合う様に臨場感があった。やはり本物は違うなあ。CDと生演奏の違いに少し似ていると思った。
陶器の器が出す音はデタラメではなく十二の音階に基づいているようであった。また水流はポンプにより一定の速度を保つように仕掛けられていたようだった。これらの要素を考えると、この作品はジョン・ケージ創案の「偶然性の音楽」と、その後に提唱された「管理された偶然性」の中間あたりの領域に属すると思った。
♪ジョン・ケージ「4分33秒」
ジョン・ケージの名前が出たついでにこの作品についてこれまで考えてきたことを記しておこう。私は、これは「コンセプチュアル・アート」だと思う。そしてこの作品はアートあるいは音楽とそうでないものとの境界線上にあると考える。私はこの作品に接することによりある種の「閉塞感」を感じてしまう。
これは強引な例えだが、仮に私たちが宇宙人に捉えられ、広大な敷地に軟禁されているとしよう。その土地は非常に広く、一つの国家ぐらいあると想定する。そして普段住んでいる地域から離れたところは常に厚い霧がたちこめ、遠くまで見通せない状況だと仮定する。
私たちはそこで平安無事に毎日を送っている。生活の糧もあるし、娯楽もある。森も湖も山もあり、生活に飽きることはない。
しかしある時、この霧が一瞬にして晴れたとする。それにより遠くまで見通せるようになる。すると、遠方には高い壁が万里の長城の如く立ち塞がっている。その壁を見た瞬間、私たちは囚われの身であることを自覚し、それまで抱いたことのない閉塞感に襲われる。
ジョン・ケージが示したこの「4分33秒」は、まさにこの「霧を取り払う」役割を果たしたのだ。そして私はそのお蔭で閉塞感をおぼえ、アートや音楽を考える際に、何とも言えない圧迫感を感じるようになってしまったのだ。
実際には、この「境界線」に行き着くまでの間には無尽蔵のアイデアや可能性が広がっているのだが、それを単純化して考え始めると「閉塞感」が頭をもたげてくるのだ。現在、私はこの「閉塞感」の呪縛から逃れ、ようやく気持が静まっている段階なのだが、何十年か前ではそうはいかなかった。この作品の「マイナス効果」というか「足を引っ張る効果」は絶大であった。
♪バルトロメウス・トラウベック「Years」
輪切りにした木の幹をターンテーブルに据え付け、レコード針の代わりに小型カメラを配して木目を読み取り、そのデータをあらかじめ定めた方式で音に変換するという作品だった。
音程、音色、音の強弱の変化が通常の音楽と異なり予測不能で、それが面白かった。自然(この場合は樹木)の生み出した紋様をベースとしているので、これは「偶然性の音楽」ではない。ただ、日常なじんでいる音楽との違いが大きいため、「偶然性の音楽」に似通った印象を受ける。
このような作品では変換テーブルの作り方で出される音が全く異なるから、作家はそのあたりに腐心したのであろう。楽しい作品だった。
♪池田亮司「data.matrix[n゜1-10]」
プロジェクタが一列に10個並び、壁面に文字や記号で構成された膨大なディジタルデータが映し出される。それらが高速で動き、硬質で無機的なイメージとなって眼に飛び込んでくる。そこには現代的な詩情が溢れている。
もしプロジェクタが一つだけだったら、大してインパクトを受けないであろうが、10個だと迫力がある。端から端まで距離があるので、行きつ戻りつして観て楽しんだ。私はこれまでテクノロジーだけで構成したアートは疎んじていたが、これような優れた作品なら一目置かざるを得ない。
他にも面白い作品がいくつかあった。東京都現代美術館は遠いし入場料が高いので最初は行くのをためらっていたが、内容が面白かったし、常設展が充実していたので行った甲斐があっ
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