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2012年12月 5日 (水)

音楽私論:ソナタ形式の呪縛

ソナタ形式はベートーヴェンなどの古典音楽で盛んに作られたが、現在でもこの形式で作曲する人(私を含め)が後を絶たないのはなぜだろうか?

ビジネスの世界では「顧客ニーズに適った製品を開発する」という考えがある。これを音楽に当てはめると「聴衆が望む形式で作曲する」という事になるが、これは本当だろうか?私は大いに疑問に感じる。

例えばモーツアルトのトルコ行進曲付きのピアノソナタは聴衆に愛されている作品だと思うが、この曲にはソナタ形式の楽章が一つもない!それでも聴衆が喜ぶのだから、ソナタ形式が顧客ニーズに適っているという考えには無理があると考えられる。

そこで考えたのだが、これはどうやら作曲者自身に「ソナタ形式で書かなければならない」という呪縛があるからではなかろうか。そして、それ以上に真実に近そうなのは、ソナタ形式が作曲の技量を誇示しやすいからだという事だ。

ソナタ形式の中間には「展開部」がある。ここでは提示部で示された第1主題、第2主題、終結主題が分析・加工され、展開されてゆく。ここに作曲者は自分の培った作曲技法を投入し、努力して音の構成を作ってゆく。

ソナタ形式の展開部は、いわば「作曲者の腕の見せ所」という重要な場なのだ。他の楽曲形式には、このような「場」はフーガ形式を除くとほとんど見られない。作曲者自身がソナタ形式で曲を作りたがるのは、こういう事情によるものだという仮説が出来た。

では、フーガ形式がソナタ形式同様、作曲者の技巧を披露できるのであれば、なぜソナタ形式のように多用されないのだろうか?私としては、ソナタ形式よりフーガ形式のほうが曲を作っていてずっと楽しいし、技巧の見せびらかしもできると思っているのだが。

この点に関しては、どうも聴衆のニーズという要素が関係しているように思う。つまり聴衆はソナタ形式なら良いが、フーガ形式は敬遠するという傾向が強いように見えるのだ。

だから作曲者本人はソナタ形式もフーガ形式もどちらも作りたいが、そこに「売れるか」という要因が加味されて、フーガが落ちソナタ形式が残るという結果に落ち着いているように考えたいのだ。

以上のような理由から、作曲者は「ソナタ形式の呪縛」を受け、この現代においてもせっせとソナタ形式で曲を作っている、というのがこの私論の結論である。果たしてこれは正しいだろうか?

蛇足だが、私はソナタ形式において展開部だけ脚光を浴びる状況を憂い、「再現部の再開発」(駅前みたいだが)を考えた。そして弦楽四重奏曲第1番の第1楽章(もちろんソナタ形式)で短調の第1主題と長調の第2主題を同時再現するという技巧的な構成を試みた。

これを仲間に自慢しても「何じゃそれ?」という感じで相手にしてもらえない。しかし古今東西の楽曲で、短調・長調の主題を同時に鳴らすのはほとんど例が無いはずだから、少しは注目して欲しいのだが、これは独りよがりだったのか・・・。

ちなみにこの弦楽四重奏曲第1番は2003年に「泉の里コンツェルトザール」という所で初演した。残念ながらこの「短調・長調の同時再現」に気付いて褒めてくれた人はいなかった。誠に寂しい限りである。

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