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2012年11月 8日 (木)

美術アーカイブ:1997年(3) 飯田善國展

「連続する出会い 飯田善國展」(神奈川県立近代美術館・本館)は充実した展覧会だった。

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飯田善國とはどういう人か?という質問に対し、最も簡単な答えは「彫刻家」になるかと思う。確かに彼は魅力的な抽象彫刻を多く残してくれたから。しかし飯田善國は絵画作品にも長じているし、西脇順三郎と組んで詩作にも非凡なところを見せる多才な人間である。画家とか彫刻家など、一言で彼の素養をすべて言い表すのは難しい。あえて短い言葉で呼べば「クロスオーバー・アーティスト」になるだろう。その飯田善國の歩んだ道を追体験するのも楽しそうだと思った。

飯田は1923年 栃木県に生まれ、中学の時に最初の油絵を制作する。高校は慶応に入学するが、学徒出陣で中国大陸へ渡る。復員後、慶応大学へ進学する。その頃描いたのが「女と馬」(1946年)。

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慶応を卒業すると芸大の油絵科に入り直す。師はあの有名な梅原龍三郎!しかし在学中に結核を患い入院する。その頃に描いたのが「オーケストラ」(1952年)。パピエ・コレの技法を使っているように見える。

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最初画家を目指した飯田が彫刻に転じてゆく過程は、自著「彫刻家 創造への出発」(岩波新書)の第Ⅵ章「創造への出発」中の「私とは何者か」に記されている。そこには画家を志してローマに渡ったが、彫刻に触発されたと書かれている。何事にもきっかけというものがあるのだ。

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飯田は1962年より木とブロンズによる彫刻「HITO」シリーズの制作を開始する。当時の典型的な作品の一つに「HITO(鳥人)」(1962年)がある。人物と鳥を融合したような形状をイメージしているが、ほとんど抽象彫刻である。

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一方、飯田は西脇順三郎とのコラボレーションに取り組んでいる。詩画集「クロマトポイエマ」(1972年~) はアルファベットに色を対応させて構成する視覚芸術だ。言葉で説明するより事例を観た方が早いので「PUTONSHOES – KUTSUOHAKU」(1973年)という作品を紹介しよう。

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向かって左には「靴を履く」という日本語をローマ字表記した文字が並んでいる。反対の右側にはそれを英語にした「Put on shoes」が配置されている。それぞれの文字には色が対応付けられている。例えば「K」には赤が割り当てられ、左にあるKの文字から右へ向かって赤い棒線が延ばされている。しかし右側の単語にはKは無いので途中で切れている。

次の「U」には薄い茶色が割り当てられている。この文字は左に2つ、右に1つある。薄い茶色の線はこれらの3つの文字を結んでいる。以下、同様である。

コラボのことを端的に表現したのは次の作品だ。西脇順三郎と飯田善國のローマ字の名前が上記のルールによって結ばれ、魅力あるコンポジションとなっている。

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「クロマトポイエマ」は後に立体になる。「HEALTH-SICKNESS」(1974年) はその一つだ。

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飯田はコラージュも制作している。1976年から翌年にかけて作られたのが「マリリン・モンローの解剖学」。これは45点からなる連作だ。そのうちの1点を例にとろう。

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飯田の立体作品はより自由になってゆく。1988年の「壁から離れゆく胴体」は彩色された綱を用いてはいるが、「クロマトポイエマ」の制約から解き放たれた感じがする。

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1997年の「シンドバッドの傘」に至ると、飯田の作風の変遷を実感することができる。

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以上のように飯田善國の作品は多岐にわたる。これらを集約しようとしても無理がある。いい意味で拡散した作風の持ち主といって良いだろう。楽しい展覧会を観た。

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