ジャパン・クラシカ
「ジャパン・クラシカ 第5回定期演奏会」(杉並公会堂 大ホール)に行った。
今回演奏されたべートーヴェンの第5交響曲に関しては、私は生まれて初めて生演奏を聴いた。私は以前、某アマチュア交響楽団が同曲を採り上げた際、エキストラとしてチェロを弾いたことはある。また幼い頃レコードでも聴いた記憶がある。しかし自分が客席にいて同曲の演奏を聴いたのは、今回のコンサートが初めてだったのだ。
久しぶりにこの曲を聴くと新鮮に思えるところがある。例えば終楽章の終わり近くは、もう終わりかな?と思ってもまだ続く。この楽章はこんなにしつこかったかなあ、と思った。
そして以前気が付かなかったのは本当に終わり近くに鳴るダブルベースのオルゲルプンクト。これは「本当終わりですよ」というメッセージが組み込まれているかのように響いた。
フーガでは終曲近くに低い声部にオルゲルプンクトが鳴って上の声部でストレッタが奏されて終わるという雰囲気が出される。この曲はその形になぞらえて作られたのだろうか?(この楽章はフーガではないが)もしそうだとして、そして初演当時の聴衆がそういう約束事を共通認識していたと仮定してみる。そうすると、当時は仮に静かな音で演奏したとしても、聴衆は「ああもうすぐ終わるな」という感覚を抱いたという図式である。
逆に現代日本の聴衆がそんな約束事など関係なく、鳴った音そのもので感じ取るということなのであれば、終わる感じを出すためには譜面に書かれた以上にクレッシェンドして大きな音を出す必要があるかもしれない。こういう事は演奏解釈とかいう問題ではなく、目的(終わる感じを出す)ためにはどう演奏したら良いか、という目的志向型の考えになるだろう。
この「暗黙の約束事」は、宗教画においては顕著である。手に持った剣は何の象徴だとか、3人という人数は何を意味するとか、数限りなくある。上記のことは音楽においても美術と似た「暗黙の約束事」があったかどうか、あったとしたら、それはどのようなものだったか、という事を研究すると面白いかもしれない。
例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第1楽章で独奏ヴァイオリンがオルゲルプンクトを奏するという箇所は、単に物珍しいというだけでなく、何か具体的なことの象徴である可能性はないか?そういう脱線した論理を探るのも一興かと思った。無いということが結論ならそれで構わないのだが、それでは何となく寂しいというか、ロマンが破られた感がなくもない。このような事は無いことを証明してとどめを刺してしまわずに、あるところで掘り下げを中止し、どちらとも言えないという結論にしておくのが面白いのかもしれない。雪男やネス湖の怪獣のように。
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