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2012年9月30日 (日)

いわき市のフラガールが来た

「第39回 藤沢市民まつり」に行った。

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お目当ては、はるばる いわき市から駆け付けてくれたフラガールのステージだ。でも、その前に太鼓のグループの演奏。(太鼓では演技と呼ぶそうだが)

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次に元モーニング娘の新垣理沙の「一日警察署長 委嘱式」。彼女のファンが大勢取り巻いていた。

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フラのコーナーに移ると、まずは地元の子供たちのフラを鑑賞。これが可愛かった!

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特に端っこで踊っていた一番小さい子のあどけなさに、あちこちから「かーわいー!」という声があがっていた。この年頃の子供は何をやらせてもかわいい。特にフラはそれが顕著に表れるみたいだ。

そして地元のグループによるステージ。これがなかなかシックで良かった。

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いよいよお待ちかね、いわき市のフラガールのステージ。良かったなあ。

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他のグループと比べて濃いメーク、派手な衣装、アップテンポの踊りが目立った。そして普通のフラでは聞いたことがない甲高い悲鳴のような声を掛け声代わりに発していた。

上記のような感想は、通常は悪い意味で使うことが多い。しかし、いわき市のフラガールに関しては、良い意味で書いたつもりだ。その理由は、被災地復興を祈念する踊りなので、人々に元気を与えるのが主目的であるからだ。

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フラガールからはある種のオーラが発せられ、そのおかげで元気が増大した感じがした。東北の被災地の人々も同じものを感じ取ったであろう。ここは被災地ではないが、被災地を支援しているフラガールの心意気を理解できた(と思った)のは収穫だった。

2012年9月29日 (土)

井上有一展

案内葉書に一目ぼれし、「井上有一展」(gineta ジネタ:藤沢)に行った。

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作家は書家だが作品は「書画」と呼んでよいと思う。自由にのびのびと描かれた文字がまるで絵画のように感じられる。

人間としての井上有一は愛される性格だったようだ。国内外の様々なジャンルの作家との交遊があり、肖像画を描いてもらっている。案内はがきの真ん中は、故・平松(五島)敬子が描いたもので、この展覧会のきっかけになったという。

書の展示だけでなく、関連書籍・雑誌が閲覧用に置いてあり、盛りだくさんの内容だった。短時間ではとてもすべてを観ることが出来ないため、再訪しようと思った。

2012年9月28日 (金)

桃澤慶子展

「桃澤慶子展 Little Pictures II」(art truth:横浜)に行った。

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抽象画ばかりの展覧会だと聞いたので、抽象大好きの私は喜んで行った。案内はがきの作品は実物の方が綺麗な色に見えた。具象画は写真で観てもストーリーを思い起こすなど、それなりの愉しみがあるが、抽象画は現物を観ないとその真価を味わえない事が多い。

様々に彩色された四角形が並んだタイプの作品は私の好みに合っていた。また「青の世界」という作品は水平に折り重なった帯を分断するように三角形状の形が割り入った構成をしていて、面白かった。

帰りは関帝廟通を縦断して石川町駅に向かった。金曜の夜だというのに、中華街は閑散としていた。アートの力で何とかできないものか・・・。

2012年9月27日 (木)

DOCK OF BAY-URAGA

「DOCK OF BAY-URAGA」(コダックフォトギャラリー:銀座)に行った。葉山在住の建築写真家・安川千秋が閉鎖される前後の浦賀ドックを撮った写真の展覧会だ。

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先日藤沢のギャラリーCNで開催された松浦隆幸の写真展で作家の安川千秋と会い、レセプションと打ち上げにご一緒させて戴いた。その際案内はがきを受け取り、ぜひ観に行こうと思い友人を誘った。結果的にアート関係の仕事に携わる「あと・りえ」さん(仮名)と、仏教に造詣が深い「マー君」(仮名)の二人が同行してくれた。

展示された写真には様々なタイプがあった。案内はがきに採用されたのは同じ場所を異なる距離から撮影した3枚組の2枚だ。これらは被写体との距離を変えただけで表情が変わる楽しさが感じられるタイプだ。

それに対し色彩、特に赤の美しさを存分に味わえるタイプの作品も多かった。コダックのフィルムは赤を美しくするかもしれない、という話を聞いた。赤いペンキあり、赤さびありで、同じ赤でも色合いが微妙に異なり、深みを感じた。

そして天に向かってそそりたつクレーンの写真は迫力を感じさせるタイプだ。力強さもさることながら、その形状がとても美しい。工学的に計算し尽くされた形というのは、観るうえでも美的に感じられるものだろうか。未来派の「咆哮する自動車は《サモトラケのニケ》よりも美しい」を想いだした。

写真に撮られた浦賀ドックはもう存在しない。そしてこのコダックフォトギャラリーも次の展覧会を最後に閉じられると聞いた。過ぎ去ってゆくものに接すると悲しい。ギャラリーの中は、展示された写真たちが底抜けに明るかったから意識しなかったが、辞去する際に一種の寂寥感がわき、寒さをおぼえた。

でも私には二人の連れがいたから寂しさを除去できた。そして寒さに関しても、琥珀色の魔法の液体が体を温め、事なきを得た。世の中、人の助けを借りれば何事もすみやかに解決するものなのだ。

2012年9月24日 (月)

アラブ・エクスプレス展

「アラブ・エクスプレス展 アラブ美術の今を知る」(森美術館)に行った。妻ジョアンナ(仮名)も一緒だった。

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今回この展覧会に足を運んだのは、アラブの社会に関しての見聞を深めようというのが目的だった。自分の趣味にかなったアート作品に出会うという事に関しては優先度を落としていた。(偶然好ましい作品に接することができたならもうけものだという考えだ。)結果的に、おおよそイメージした通りの成果を得たかと思う。

アラブに関する私の理解は小さい範囲にとどまっている。試しに私のアラブについての情報源を列挙してみよう。項目が2つしかないが:

1.「アラブ飲酒詩選」
アブー・ヌワース著、塙 治夫編訳(岩波文庫)
「お清め」(意味わかりますね?)が好きな私が古本屋で戯れに買ったもの。アラブの人も何だかんだ言い訳して酒を飲むという事を知った貴重な本。

2.イケメンのイ君
先日観た浅草流鏑馬に出場したサウジアラビア出身の好青年。「かつての少年少女探検隊」(略称KST)のメンバーの関係で知り合った。一人の人間としての意見をいろいろ聞くことができるので貴重な存在。酒を飲む関係については、岩波文庫よりもっと突っ込んだ話をしてくれた。

以上の情報源から得られる情報は、細切れで連関性が無い種種雑多な内容である。それに対して今回の展覧会は系統だってアラブのアートを説いてくれたので、既知のバラバラな知識を繋ぎ合わせ、点ではなく面の知識へと導いてくれた。そういう点でこの展覧会に行った価値はあったと思う。

2012年9月23日 (日)

平本公男展 心象の譜

「平本公男展 心象の譜」(ギャラリーB:鎌倉)に行った。

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今回興味深かったのは軽井沢(と思われる)の風景画の中で、木々の繁っているあたりに点在する白い絵具だった。近づいて観ると、その白い絵具は手前に盛り上がりを見せ、なごり雪のように見える。

ところが同じ作品を遠くから観ると、その白い部分は逆に奥の方へ後退して見え、木漏れ日のような印象となるのだ。

近くでは盛り上がり、遠くでは後退して見えるなら、その臨界点はどの辺だろうか?私は試みに、まず作品にかなり近づいてから徐々に離れてゆき、どこで見え方が反転するかを調べようとした。ところが、何回往復しても、その臨界点は見つからなかった。

盛り上がり・後退の中間的に見えるところは確かにあったが、それはある程度の幅を持って存在していたのだ。これはなぜだろうか?理由はわからない。

今回はこの不思議現象に遊んだが、他の作品も楽しめた。またこのギャラリーは初めて来たが、内部が広く天井も高いのでゆったりした気持で作品を鑑賞できたことを記しておく。

永山フェスティバル

「第15回 永山フェスティバル」は、こんなに楽しそうなチラシが来場者を誘っていた。

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あいにくの悪天候だったが、それでも多くの人が来場したので、関係者は一安心したことだろう。

私は「音楽集団モザイク」のメンバーとして、フェスティバルの催しの一つ、サロン会場コンサート」(ベルブ永山3階・サロン談話コーナー)に出演した。

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サロン会場コンサートは一つのグループが45分づつの持ち時間で、複数グループがスケジュールされていた。

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会場スタッフを兼任する演奏者もいたが、その人たちはタイムキープで大変そうだった。時間が早まったり押したりして、その都度調整に苦労していたのだ。

この催しは楽しそうだ。来年もまた来たい。そしてその時はぜひ晴天になって欲しい。

サロンコンサート出演

「サロンコンサート  ベートーヴェンの弦楽四重奏曲」(横浜市イギリス館)に出演した。

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1週間前に左手の人差し指を怪我した時はどうなるかと思ったが、達者な整形外科にかかったおかげで演奏には全く支障がないほどに回復した。良かった。

私は「クワトロ・ロッソ」というアマチュアの弦楽四重奏団のメンバーでチェロを弾いている。現在ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲演奏するという無謀な企てが進行中で、今回は第1番と第7番(ラズモフスキー第1番)の2曲を採り上げた。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は「大フーガ」を1曲と数えると17曲ある。そのうち今回で14曲を演奏し終えたので、残るはあと3曲だ。演奏の出来はともかく、よくここまでこぎつけたものだ。

私は「曲順評論家」と名乗っているので、自分で自分たちが決めた曲順を評論してみようかな。

2曲である。順列組合せで、曲順は2通りしかない。どちらの曲を先に演奏するか、それだけ決めるだけだ。私たちは第7番を先に、第1番を後にした。普通の感覚では、初期の簡素な作品(今回は第1番)を冒頭に置いて、最後にもっと長大なもの(今回は第7番)を据えるだろう。それを逆にしたのである。

別に奇をてらってそうしたのではない。第7番は長くて演奏も難しいので疲れる。もし最後に演奏したら、終わり近くで体力がもたないだろうと考えたのだ。そのため、元気なうちに第7番を片づけておいて、最後は余力で第1番を弾ききるという考えのもとに、第1番―第7番という順番にしたのだ。プロと違って私たちアマチュアは不要な力を入れて弾くから、疲れるのも早いのだ。

結局、曲順をどういじっても疲れることには変わりがなく、終演後はぐったり疲れた。イタリアンレストランに行って冷たい白ワインで疲れた体を清める儀式を行い、ようやく人心地がついた。

2012年9月20日 (木)

たかが・されど三部作

最近の災難「たかが・されど」シリーズでは、既に<左手の爪>と<右足の弁慶の泣き所>の2カ所について記事を書いた。もう一つはおでこだ。

2つの禍と時を同じくして、食器棚の扉の角に額を打ち付け、瘤(こぶ)を作ってしまったのだ。重傷ではなく、腫れも目立たなかったのだが、痛みはこれが一番あった。

悔しいので詩でも創作したかったが、前回と違って何も浮かばない。その代わり「おでこ」という題材を取り上げた「一科事典」を思いついた。

♪額(ひたい)
「顔の上部で、眉と髪の生え際の間のことである」と辞書は仰々しく説明している。なるほどそうかもしれないが、これではつまらない。

額といえば、バルテュス描く少女のおでこを想いだす。そんなに広い額ではないのだが、額そのものに存在感がある。よく観ると、多くの少女像の額には起伏が見られることがわかった。その凹凸のために、額の存在が際立っているのだ。これで新たなバルテュス論を展開できないかな。

♪額(がく)・額縁(がくぶち)
では今度はどうだ?同じ漢字なのに、読み方も違うし異なる意味になる。額縁は「額(ひたい)の縁(ふち)」が語源だそうだ。絵を飾る額はひたいと親戚だったのか。

むかしむかし「額縁ショー」なるものがあった。今は死語になっているかな。それで思い出したのだが、知人の画家がある時ストリップ劇場に通い、ヌードダンサーをスケッチして油絵を描いた。それがどうした?と言われそうだが、その画家は女性なのである。一昔前だったら、社会に受け入れてもらえなかったかもしれない。

そして出来上がった作品が素晴らしいのだ。構成感があり、色彩も洗練されていて美しい。踊り子の姿はかなりデフォルメされ、ちょっと観ると抽象画のようにもみえる。言い換えれば、抽象画のような構成の味わいを持ち、なおかつその背後に人間の発するエネルギーを感じさせる作品に仕上がっていたのだ。

♪猫の額(ねこのひたい)
狭い庭を表現するなら、「鼠の額」や「鳥の額」の方が狭さが強調されるような気がするが、なぜ猫なのだろうか?猫は嫌われて十二支には含めてもらえなかった。だから狭いという否定的な表現に使われたのだろうか?うーむ、この説はもっともらしい響きがあるぞ。

猫といえば熊谷守一。熊谷の描く猫はマティスの作品のように平面的なのでどこからどこまでが額かわからない。熊谷の猫は、そんな事を言われているとは夢にも知らず、額ならぬ媚態をつくろっている。

♪額田王(ぬかたのおおきみ)
万葉歌人だが、小倉百人一首には作品は含まれていないようだ。私は歴史に疎いので偉そうな事は書けないが、ネットで調べたら絶世の美女という説があるようだ。うーむ、これは興味を持ったぞ。

美人の誉れ高い人物は絵に描かれる機会が多い。そして漫画にも採り上げられる。藤田素子らの作品だ。私はこの分野に弱いので、突っ込みを入れないで下さいね。

♪金額(きんがく)
金(かね)はわかるが、なぜ金に額(ひたい)がくっついたのだろうか?金にはおでこないのに。美しい金(きん)に、これまた美しい額田王を合わせて、きらびやかな物を表現したのだろうか?違うだろうなあ・・・。

♪額面(がくめん)
この言葉が全然わからない。顔の表面は「顔面」(がんめん)であり、意味は明確だ。しかし額(ひたい)の表面を額面と呼ぶなんて聞いたことがない。世の中には不思議なことがいっぱいあるなあ。

我が心の師・赤瀬川源平 大先生は金のようで金でない物を作ったばっかりに有罪となってしまわれた。当時の裁判官はユーモアを介さなかったのだろうなあ。

♪額の無い絵(がくのないえ)
有名画家の絵画は、必ず立派な額縁に収められている。展覧会で世界の名画を鑑賞する際、額縁が無いという事はほとんどありえない。

しかし、中には例外があるのだ。トロンプ・ルイユ(だまし絵)の中には、絵の中に額縁を描き込んでいる場合がある。鑑賞者はそれを本物の額縁だと勘違いして鑑賞する。このような作品を額縁に入れると二重額縁になってしまう。いや、私は一度そのような「二重額縁」を観たような記憶がある。思い出したら発表します。

2012年9月19日 (水)

堅田 あずさ・堅田 萌 二人展

「堅田 あずさ・堅田 萌 二人展」(カフェ・ド・ルノン:新橋)に行った。

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母(あずさ)と娘(萌)の絵画展で、植物を扱った絵が多かった。ポイントは、堅田 萌が子供とは思えない上手さであった事と、堅田 あずさの作品が個性的で、他であまり見ない感じがしたことだ。

私は構成感が強い絵を好む。今回の展覧会では、二人の主要作品ではなかったかもしれないが、次のモノクロームの作品が好ましかった。

堅田 あずさ:「二十日大根」と「紫蘇の葉」
堅田 萌:「夏みかん」と「梅の花」

なお彩色された作品では、堅田 あずさの「アロエ」が印象強かった。

母子に共通したスタイルはあるだろうか?背景を描かず、画面をすっきりさせている点かな。あるいは使う色相を少なめに抑え、シンプルさを強調している点かもしれない。そのような描き方で、一部の作品は半ば抽象画に近づいた印象があった。抽象好みの私にも感覚的に合ったのはそのためだと思う。

今後の二人のコラボが楽しみだ。

2012年9月18日 (火)

同時多発たかが・されど

前の記事で指のトゲについて書いたが、実は災難はこれだけではなかったのである。その翌日、ある所でテーブルの角に弁慶の泣き所をぶつけてしまったのだ。

不思議なのは、あまり痛くなかったこと。弁慶でも泣くぐらい痛いはずが、なぜだろうか?レセプションでふるまわれたワインで体が清められた為であろうか?いずれにせよ、痛みが抑制されていたのは助かった。

しかしこの打撲は外見的に醜い跡を残した。打ち付けた患部を中心に、円環状に腫れが広がっていたのだ。完全な円形ではなく、一部が切れた円弧の形をしていた。これが私の「なんちゃって詩心」を刺激した。

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♪Cの字よ、アルファベットの3番目の文字よ、
汝は有名なる「きりすと」の頭文字なり。さぞかし誉れ高いことであらふ。しかしCよ、奢るでない。アルファベットの1つ上には高名なるB(ぶっだ)がおられるのだ。そしてBとCよ、驚くでないぞ。さらに上にはA(あまてらす)が君臨しておられるのだ。

♪三日月よ、古来より夜空を飾りし者よ、
汝は美といふ概念を媒介として地球人と交信してきたなり。誠に幸運な存在と言わればならぬ。汝が食事を済ませ膨張した腹を抱えると「ふるむーん」と呼ばれる妖怪に変化するなり。目にした人間は狼に化身し、地上に恐怖をまき散らす。かの著名な作曲家「しぇーんべるく」は腹いっぱいの汝に憑かれた道化師を題材に世にも奇妙なる音楽を創成したなり。

♪食べかけのドーナツよ、
汝の立場はサーカスの綱渡りにも似て不安定なり。花より団子とばかり最初の一かじりをした子供はゲームの誘いにつられて行ってしまったなり。残された大人どもは汝に興味を示さず、放置するなり。汝の行く末は、鼠どもの饗宴に供されるか、自然界の化学反応により消滅するかのいずれかなり。

♪ハナウマ湾よ、ハワイの観光地よ、
汝は古来海辺に近い火山にて、カルデラ湖を擁していたといふ。そしてある時、地殻変動にて外輪山の一部が崩落し、カルデラ湖が外洋と繋がったと聞く。淡水魚と海水魚が共存する世にも珍しいスポットとなった由。魚どもは、呉越同舟を楽しんでいるのであらふか?

♪蹄鉄よ、馬を速くする道具よ、
汝のお蔭でサラブレッド馬は高速を誇示するなり。浅草流鏑馬にて、射手が矢をつがえる時間が無いと嘆きても、馬どもは速度を落とさず、あげくの果てに一人の射手が代わりに落つることになりき。蹄鉄よ、汝の犯した罪を償う準備は出来ておるか?

♪ピアスをしていない女のイヤリング止め金具よ、
汝は幸運なり。もし世の女すべてがピアスを施したまへば、汝の存在価値は無いなり。自動車メーカーの子会社に引き取られ、溶融され、部品として新たな人生を送るのがせいいっぱいなり。

♪ロブよ、テニスの技よ、
汝は、相手がネット近くに到来した際に放たれると攻撃的となる。しかし相手が後ろに構えている場合は平和的となれり。日本人の若い男が恋する乙女とテニスをした。男は彼女にゆっくりとしたロブを打ち、愛情の証とした。日本人、RとLの区別知らず。「アイ・ロブ・ユー」と呪文を唱えるなり。

♪食べかけのベーグルよ、ドーナツの親戚よ、
汝がを航空機の中で食事として出されたことありき。亜米利加人の客室乗務員は汝のことを「ベイゴ」と発音するなり。何のことか理解できず困惑したなり。しかし、なるほど「米語」だと妙に納得したなり。

♪視力検査の記号よ、
汝は上下左右、忙しく向きを変えるなり。よく疲れないものだと感心せり。検査においては、汝が矮小で切れ目がわからなくても、推測で言うなり。偶然当たること多し。世の人間の記録上の視力が実際より良好とされる理由なり。

♪下り藤よ、家紋よ、
汝は正常なり。世には「上り藤」なる奇妙なものもありき。重力の法則に反しているにもかかわらず、古来より正式な家紋として市民権を得ておるなり。我が国に南蛮渡来の技術が到来した後のこの世においては、あってはならぬ物なり。そして汝が天下を取るなり。

♪アーチよ、
汝は古来より建造物に無くてはならぬ物であったなり。アーチテクチャと言うからのう。山田君、座布団3枚あげなされ。

♪Uの字よ、
汝はアルファベットの下位に位置するなり。しかし重要なり。索引でアメリカ合衆国を探そうと、一生懸命Aの項で「アメリカ」を探しても無駄なり。「ユナイテッド」のUが正解なり。

これだけ書いたら腫れも引いてきたなり。

2012年9月17日 (月)

たかがトゲ、されどトゲ

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今週末は2日連続コンサートに出演する予定だが、大変な事が起きた。金曜日のことだったが、左手の人差し指にトゲを刺してしまったのだ。なあんだトゲか、と言うなかれ。自力ではどうしても取れず、整形外科に駆け込んで抜いてもらった。詳細は省くが、結果として全治1週間の傷となった。

今日は2つのコンサート仲間のうち片方の練習があった。完治しないまま絆創膏を貼って臨んだが、傷ついた指では弦を強く押せず、満足な音は出せなかった。まあこの調子なら今週末の本番には間に合うだろう。

*なお写真は本文とは関係ありません。カール・ブロスフェルトの写真作品です。何となくトゲトゲしいのでイメージが合うかな、と思って載せました。

2012年9月16日 (日)

旧近藤邸

国登録文化財「旧近藤邸」(藤沢市)を見学した。フランク・ロイド・ライトのチーフ・アシスタントを務めた遠藤 新が設計した邸宅だ。

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藤沢市民会館の事務所に記帳し、鍵を借りて内部を見学できる。

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クラシカルなドアノブの下にクラシカルな鍵穴があり、そこにクラシカルな鍵を差し入れる瞬間から見学は始まる。

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暖炉のある一角は洒落ている。同行した即興演奏の相方によると、この暖炉は大谷石を用いて作られているという。

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暖炉の脇には木の葉で作られた和飾りが殺風景な部屋に彩を添えている。

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そして暖炉の中を覗き込むと、そこはチェンバロの内部のようであった。

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四角い窓枠はサイズの大小により変化を付けられ、それらが並ぶことによって心地よいリズムが生じている。

時には長方形が回転し、菱形となってさらなる変化をもたらしている。

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菱形と競うように存在感を示しているのは丸い照明器具。これはもしかして設計者遠藤の師であるフランク・ロイド・ライトの作かもしれぬ。日本語はRとLの区別が無いので「ライトのライト」というオヤジギャグが成立する。

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建物の外に出ると林立する柱が新たなリズムを主張している。

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柱に守られるように設置されている四角いものは鯉の池か。

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樹々は建物よりはるかに高く生育し、時の流れを刻む。

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夕日が建物にハート印を投影すると、閉館時間が近いことがわかる。旧近藤邸に別れを告げる時が来た。

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松浦隆幸の写真展

「ON THE ROADSIDE」(ギャラリーCN:藤沢)に行った。松浦隆幸がアメリカのアリゾナ等で撮りためた写真の展覧会だ。

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私は展覧会に出かける前に「予習」することが多い。失礼なことに私は松浦隆幸を知らなかったので、経歴などをネットで調べようとした。その際、松浦を写真家だと思い込んで、その筋で検索したのだが、有益な情報を得られない。おかしいなと思い、別のやり方で検索したら、写真の専門家ではないことがわかった。お恥ずかしい限りである。

遠回りをしたが、松浦隆幸について若干の事前情報を得ることができた。
1.大学では建築を専攻
2.もと日経アーキテクチャーの記者
3.アメリカ周遊の経験
4.土木の現場「秘境を貫く 飛騨トンネルの物語」の共著者

そして展覧会場へ。展示された20数点の作品は独特のオーラを放っていた。内容的には砂漠の中でどこまでも真っ直ぐ伸びる道路、使われなくなり放置されたガソリンスタンドの跡など「無人」、「廃墟」というジャンルになるのか。しかしそれらの作品には不思議と明るさが感じられた。

その明るさは、乾燥した空気と抜けるような青空によるものらしい。そのため、撮影された「廃墟たち」はクールで爽やかな魅力を持ったのだろう。

もっとも吸引力があったのは案内葉書に使われた傾いた給水塔の写真だ。私はてっきり老朽化して放置された物だと思っていたが、なんと現役で活躍していたそうだ。いかにもアメリカの田舎らしいたたずまいだ。

松浦の写真に似たものを「アメリカの現代写真」(小久保 彰著:ちくま文庫) に見つけた。スティーヴン・ショア、ウィリアム・エグルストン、ジョール・マイエロウィッツらの写真作品だ。それらの作品は何となく「欲張っている」というか、構図、色彩に懲り、1枚の写真に多くの要素を盛り込もうとしているような印象だ。

それに対して松浦の写真はもっと「シンプル」に見えた。対象物を見つけたら、それ一つだけに集中したような印象なのだ。この方が1つの作品に1つの要素ということで、素直にすっきりした感じで鑑賞できる。そして複数の要素が欲しければ、複数の作品を観ればよい。実際、会場に並んだ写真群を1枚1枚順番に観てゆくと、アリゾナ砂漠地帯を旅したようなストーリー性を感じた。

「写真家」松浦隆の今後の活躍が楽しみだ。

2012年9月10日 (月)

Intellectual展

「<ユニット企画展> Intellectual展」(Gallery Q:銀座)に行った。

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画廊がイニシアティブを取って5人のアーティストの作品を紹介するという企画だった。長方形の会場に平面・立体の作品がぐるっと並べて展示され、壮観だった。

♪依藤奈奈(よりふじ なな):案内葉書の左上(但しこの作品は展示されず)
知り合いの画家。以前は横縞の抽象画を主に描いていたようだが、今回は縦になっていた。また以前よく見られたシルバーの縁取りが消滅し、異なる色の帯が隣り合わせに描かれていた。この変化を見て、モンドリアンの黒い線の消失を思いだした。以前の作品も良かったが、今回のタイプも明るくていいなあ。

♪長島正志(ながしま まさし):案内葉書の上中
水の流れに彩色したような有機的な抽象で、安らぎを与えるような穏やかな作品がいくつかあった。こういうのは好みだ。

♪黒澤 潔(くろさわ きよし):案内葉書の上右
コンセプチュアルな立体作品が中心だった。手作りの作品写真集を見せてもらった。センスがいいなあ。その小冊子がとても素敵だった。

♪後藤將義(ごとう まさよし):案内葉書の下左
ウルトラマンが好きで、その流れだというのだが、作品数点を観た限りでは、どちらかというと暗くて重い感じがした。サブカルチャーより正統派の美術というイメージがある。そう思ったのは私だけであろうか?

♪村上 郁(むらかみ かおる):案内葉書の下右
電球の中に絵葉書を封じ込めた作品が何ともいえない独特の魅力を放っていた。ロンドン留学の時の街と室内のイメージが影響しているのだろうか?

この企画は面白い。平面、立体、抽象、具象など作品の個性に広がりがあり、観ていて楽しいし飽きない。今後もこのような企画展を楽しんでゆきたい。

2012年9月 9日 (日)

浅草流鏑馬(やぶさめ)

「浅草流鏑馬(やぶさめ)」に行った。

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ピアニストの妻ジョアンナ(仮名)は5人の女性音楽家とグループを作っている。その亭主軍団を加えた合計12名は「かつての少年少女探検隊」(略称KST)として様々な活動をしている。このKSTの関係で知り合った仲間の中に、外国人のイケメンの若者(仮にイ君と呼ぶ)がいる。今回なんとそのイ君が流鏑馬(やぶさめ)に出場するというのだから驚いた。

私は流鏑馬について何も知らなかったので、良い経験になった。自分自身の勉強を兼ねて、時間軸を追って催しの様子を記録しておこう。会場は浅草で、吾妻橋から言問橋に至る隅田川に沿った場所にコースが設けられていた。

1.草鹿(くさじし)

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午前中は「草鹿」が行われた。これにはイ君は出場していなかった。流鏑馬が動く馬から的を射るのに対し、草鹿は射手(しゃしゅ)が静止した状態から矢を放ち、的に当てた数を競う競技である。

動かない射手が動かない的を射るのだから簡単だろうと言うなかれ。これがなかなか難しそうだったのだ。鹿の絵が描かれた的は大きいようで小さく、射手の位置は的まで近いようで遠い。命中率は流鏑馬よりはるかに高いとはいえ、完璧ではなかった。

草鹿には厳格なルールと作法があるらしい。それらのいくつかはマイクを持った人が解説してくれたので、理解を深めることができた。中でも興味深かったのは射手と的奉行(審判の役を任された人)との問答だ。

この問答は古い日本語で行われるしきたりがあるらしい。古語での議論は格調高くもあり、またテンポが遅いので優雅な感じもした。以下、私なりに現代語に置き換えてみる。

例えばこんなやりとりがあった:

射手:(放って的に当たり、地面に落ちている矢を指して)「矢を片づけないで下さい。審判の判定に不服があるので。」

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矢を拾う係:(拾うのをやめ指示があるまで待つ。)

審判:(射手の話を聞くという態度を示す)

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射手:「私としては的に当たったと思っていますが、審判さんはなぜ外れと判定されたのですか?」

審判:「確かに的には当たったが、跳ね返って地面に落ちた場所が悪いので外れとした。」

射手:いや良い場所に落ちていると思います。

審判:それなら調べますので、弓を貸して下さい。(そう言って射手から弓を借り、的と矢の落ちた場所の距離を測る。弓2つ分の長さ以内に収まっていれば合格(当たり)である。
「紛れもなく合格圏内に落ちていたので、当たりと判定する」。

上記の例は、いったん外れと判定された結果が当たりに翻った例だ。また次のような例もあった:

射手:「審判さん、なぜ判定を言って下さらないのですか?」

審判:「では射手さん、あなた自身はどう思うのか?」

射手:「八幡宮(だったと思うが間違えだったらすみません)の名にかけて的に適切に当たっていると信じます。」

審判:「では当たりとする。」
こんな具合だ。

この2つ目の例は特に興味深い。審判は当たり外れの評価判定を射手自身に委ねているからだ。古今東西のスポーツでこんな例はあるだろうか?最初私はこれが滑稽に見えた。神聖なる(はずの)判定を審判本人ははぐらかし、競技者に預けてしまうからだ。これは責任逃れではないのか?

しかし私は後で考えた結果、これは当時の社会において重要な意味を持っていたのではないかと思うようになった。

射手はただ単に自分が正しいとだけ言っているのではない。神(かそれに相当する存在)にかけて自分は正しい考えと判断をした、と言っているのである。自分で自分が正しいと言ったからには、自分という人間が品格ある立派な人間ですと世間に向かって表明しているようなものだ。

そしてその射手が後日の競技あるいは日常生活の他の場面で人道に反したことをもし行ったとしたら、「なあんだ、やっぱりあの人は嘘つきだったんだ」とやられてしまうだろう。つまり、自分が正しいと宣言した人間は、社会的責任を進んで負い、その責任を果たすという覚悟をするのだと思う。

そうすれば、その本人のみならず、社会にとっても有益になる。この単なる一つの競技といえども、そんな重要な裏打ちに基づいたものであるとは奥が深い。

2.流鏑馬(やぶさめ)

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走る馬の上から矢を射るということは、その間は手綱を離さなければならない。すると、足腰が安定していないと馬上で不安定となってしまう。実際に経験の浅い射手一人が落馬してしまった。(幸い人も馬もケガをしなかったそうで良かった)。

また用意された馬はほとんどみなサラブレットだったので走るのが速い。スピードが出た馬に乗って矢を射る際、課題となるのは次の2つだ:
1)自分自身が動きながら的を狙うのがそもそも難しい。
2)馬が速いので、的から的の間に矢を継がえる時間が短く限定される。
 (事実、初心者の射手が落馬した。幸いケガは無かったので良かった。)

上級者が競技に入ると、その技に驚いた。木で作られた的の真ん中の裏には紙が仕込まれているらしい。射手がもし的の真ん中を射ぬいたら、的の破片と紙切れがパァっと広がり、花火のような華やかな光景となる。そのような場面では観客から大きな拍手が沸いた。

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経験の浅いイ君は、あいにく華々しい成績は残せなかったが、それでもこの雄姿。絵になるなあ。

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3.終わってからは
ここは浅草。浅草といえば神谷バー。神谷バーといえば電気ブラン。この連想ゲームが実現して本当に良かった。炎天下の疲れも飛んでしまうようだった。

2012年9月 7日 (金)

村川拓也「ツァイトゲーバー」

東京国立近代美術館がリニューアル工事中の特別企画として打ち出した「14の夕べ」の第12夜(9月6日)に行った。この日は村川拓也の演劇作品「ツァイトゲーバー」が披露された。

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この作品は介護の現場をかなりリアルに再現したものだ。表出されたメッセージは明瞭かつ強烈であり、「この作品の狙いは何か」など余計な事を考えずに、素直に受け止めることが出来た。

出演者は二人。一人は介護ヘルパーの役回りで、演じたのは実際に介護ヘルパーの経験を持つ男性。もう一人は介護される身障者の役回りで、その場で観客の中から選ばれた。年齢・性別にこだわらない、という村川の説明があったが、結果として若い男性が名乗り出た。

身障者はALS(筋萎縮性側索硬化症)という設定らしい。手足が動かせないだけでなく、話すこともできない病気だ。介護ヘルパーとのコミュニケーションに使えるのはまばたきだけに限定される。

例えば身障者が「僕」という単語をヘルパーに伝えたいとする。ヘルパーは五十音の各行を「あ、か、さ、た、な、は・・・」のように順番に発音する。そして「は」を言った瞬間に身障者がまばたきする。こうして最初の文字は「は」行であることがわかる。その後ヘルパーは「は」行の文字を「は、ひ、ふ、へ、ほ」と順番に言う。身障者は「ほ」の時にまばたきする。こうしてようやく最初の文字が「ほ」であることが特定される。

同じようにして2番目の文字「く」が特定される。結果として「ほく」という2文字が判明する。ここでヘルパーは小考し、これは「ぼく」という単語だと推測して「僕?」と確認する。身障者はまばたきしてそれで正しいことを伝える。これで最終的に「僕」という単語が確認される。

以上はコミュニケーションの方法だが、部屋から部屋への移動も大変である。ヘルパーは寝ている身障者を抱きかかえて車椅子(会場では折り畳み椅子で代用)に載せ、目的の場所まで行き、再び身障者を抱きかかえて車椅子から降ろすという作業を行わなければならない。この他にも食事を食べさせるという作業など、様々なことをしなければならない。

このように身障者の生活は健常者に比べて時間がかかる事が多い。本作品の題名「ツァイトゲーバー」はドイツ語で「時を与えるもの」という意味だ。村川はこの作品で介護の実態を知らしめるという社会的メッセージに加え、身障者における時間の流れが健常者のそれと異なるという視点も取り入れたのだと思う。

この劇は実際の介護の現場を取材して作られたそうなので、かなりリアルだった。しかし劇にはいくつか不自然なことが含まれていたようだ。これらは作家のミスではなく、意図的なものであろうと考える。

♪ベランダの段差を埋める話
身障者がヘルパーにベランダの段差を埋めて欲しいというシーンがあった。ヘルパーは業務終了時間が迫っているので渋る。すると身障者は「じゃあいい」と要望を取り下げる。このくだりは、身障者がヘルパーを困らせるという要素を強調するために意図的に挿入されたものだと思う。そしてそれは「意図的に不自然」だ。

なぜかというと、この身障者はたとえ車椅子に座ったとしても、自力では動かすことができない。スイッチを押したりする動作ができないからだ。まばたきで機械を作動させる技術はあるとは思うが、実用化はされてないだろう。つまり彼は自力では車椅子で動き回れないから、ベランダの段差の有無は関係ないはずなのだ。

♪ヘルパーの空白の時間
劇中、ヘルパーが1分程度静止したまま無言で通すシーンが2,3あった。これは会場全体に緊張感を生じさせた。このいかにも不自然なシーンは、観客にいったん劇から離れ、いろいろ考えてもらおうという意図なのであろうか。不思議な感じが漂っていた。

♪身障者が4回希望を述べること
事前に村川が身障者役の観客に何か希望することはないかと聞いた。すると彼は「自由な時間が欲しい」と答えた。すると村川はそれを身障者役のセリフとし、劇中どこでもいいので4回それを言うように依頼した。

劇中、身障者が「自由な時間が欲しい」と言ってもヘルパーは無視する。身障者は話すことができないので、これはたぶん頭の中で思った言葉であるからだ。そしてそのタイミングは身障者役の人に委ねられている。だからその言葉が発せられたタイミングは、観客一人一人によって評価が割れるであろう。このタイミングが応援役者に委ねられているという事自体が不自然な点である。

繰り返しだが、以上の「不自然さ」は作家のミスではなく、意図的に、あるいはきわめて入念に計算され夾雑物であるかもしれない。それらによって、単調になりがちなこの劇に起伏を与えているからである。

***

時間的には前後するが、開演前には前庭に造られた仮設の「夏の家」で東京エールとサングリアを楽しんだ。

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そして終演後は飲み足りなかったので高速下の屋台へ。屋台だがワインがあった。さすが「近代美術館隣接」の屋台だ。同行者2名も(屋台のおかげで?)充実したようだった。

2012年9月 3日 (月)

石川美枝子 ボタニカルアート展

「石川美枝子 ボタニカルアート展」(京王プラザホテル ロビーギャラリー)に行った。

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友人の植物画家・松本千鶴が「とても上手な植物画家の展覧会がある」と仲間数名に声をかけたので、その誘いに乗って出かけた。私はこれまで観た植物画の中で松本千鶴の作品が最高だと思っていた。その彼女が一目置くというのだから、これは一大事だ。

会場で実際に石川美枝子の作品に接し、確かにこれはすごいと思った。迫ってくるような迫力は松本以上のものを感じた。一方、松本作品は抑制されたタッチと彩色で清らかな安らぎを感じる作品が多い。最終的に、このレベルの画家と作品は優劣が付け難く、どちらを好むかは趣味の問題であろうという結論に達した。

石川作品で私が最も感じ入ったのは「巨大ドングリ」だ。大きなドングリの外観と、輪切りにした内部とを両方描いて横に並べただけの画面だ。サイズもさほど大きくない。しかしその絵が放つ力は強かった。

輪切りの絵は樹木の年輪のような同心円が描かれている。その味わい深さがたまらない。円という幾何学的・理論的な形状構成と、自然物ならではの有機的な味わいとが見事にマッチしている。これはブランクーシの彫刻作品にも感じることで、最近私はこのパターンに強い関心がある。

ロビーでの無料の展示であるにもかかわらず、充実した内容だった。有料の本格的な展覧会にひけを取らない。石川さんと京王プラザさん、ありがとうございました。また紹介してくれた松本千鶴にもお礼を言わなければ。

2012年9月 2日 (日)

ジャパン・クラシカ

「ジャパン・クラシカ 第5回定期演奏会」(杉並公会堂 大ホール)に行った。

今回演奏されたべートーヴェンの第5交響曲に関しては、私は生まれて初めて生演奏を聴いた。私は以前、某アマチュア交響楽団が同曲を採り上げた際、エキストラとしてチェロを弾いたことはある。また幼い頃レコードでも聴いた記憶がある。しかし自分が客席にいて同曲の演奏を聴いたのは、今回のコンサートが初めてだったのだ。

久しぶりにこの曲を聴くと新鮮に思えるところがある。例えば終楽章の終わり近くは、もう終わりかな?と思ってもまだ続く。この楽章はこんなにしつこかったかなあ、と思った。

そして以前気が付かなかったのは本当に終わり近くに鳴るダブルベースのオルゲルプンクト。これは「本当終わりですよ」というメッセージが組み込まれているかのように響いた。

フーガでは終曲近くに低い声部にオルゲルプンクトが鳴って上の声部でストレッタが奏されて終わるという雰囲気が出される。この曲はその形になぞらえて作られたのだろうか?(この楽章はフーガではないが)もしそうだとして、そして初演当時の聴衆がそういう約束事を共通認識していたと仮定してみる。そうすると、当時は仮に静かな音で演奏したとしても、聴衆は「ああもうすぐ終わるな」という感覚を抱いたという図式である。

逆に現代日本の聴衆がそんな約束事など関係なく、鳴った音そのもので感じ取るということなのであれば、終わる感じを出すためには譜面に書かれた以上にクレッシェンドして大きな音を出す必要があるかもしれない。こういう事は演奏解釈とかいう問題ではなく、目的(終わる感じを出す)ためにはどう演奏したら良いか、という目的志向型の考えになるだろう。

この「暗黙の約束事」は、宗教画においては顕著である。手に持った剣は何の象徴だとか、3人という人数は何を意味するとか、数限りなくある。上記のことは音楽においても美術と似た「暗黙の約束事」があったかどうか、あったとしたら、それはどのようなものだったか、という事を研究すると面白いかもしれない。

例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第1楽章で独奏ヴァイオリンがオルゲルプンクトを奏するという箇所は、単に物珍しいというだけでなく、何か具体的なことの象徴である可能性はないか?そういう脱線した論理を探るのも一興かと思った。無いということが結論ならそれで構わないのだが、それでは何となく寂しいというか、ロマンが破られた感がなくもない。このような事は無いことを証明してとどめを刺してしまわずに、あるところで掘り下げを中止し、どちらとも言えないという結論にしておくのが面白いのかもしれない。雪男やネス湖の怪獣のように。

2012年9月 1日 (土)

猪熊弦一郎展

「猪熊弦一郎展 いのくまさん」(そごう美術館)に行った・妻ジョアンナ(仮名)も一緒だった。

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猪熊弦一郎は大好きな画家なので、過去にも2回、個展に足を運んでいる:
1995年「猪熊弦一郎遺作展-青春の軌跡-」(三越美術館)
2000年「20世紀を生きたモダニスト 猪熊弦一郎展」(東京ステーションギャラリー)

上記の個展以外の展覧会でも猪熊の作品は数多く観てきた。そんな中で今回の展覧会ではどのような「いのくまさん」を観ることができるのか、楽しみだった。

今回は猪熊が詩人の谷川俊太郎の協力を得て作った絵本「いのくまさん」に沿って鑑賞するという企画だった。ギャラリートークを聴いたが、絵本の進行にシンクロする形で解説してくれたのでわかり易かった。

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もともと好きな画家だったので主要作品や、作風の変遷についてはある程度知っていたが、今回のギャラリートークではその欠けたところが埋まった感じがした。ミッシングピースが探し出された、というと大げさになるかな。

ジョアンナも面白いと言っていた。楽しい展覧会だった。

リーメンシュナイダーつながり

先日「ベルリン国立美術館展」の記事でティル・リーメンシュナイダーの彫刻作品に触れたところ、ギタリストの原 善伸さんから「リーメンシュナイダーいいですね」というコメントがあった。「こんな渋い彫刻家が好きなのか、珍しい人だな」と思っていたら本を貸して下さった。植田重雄著「リーメンシュナイダーの世界」(恒文社)である。

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原さんはドイツのケルンに留学経験がある。ドイツ滞在中に音楽だけでなく美術にも見識を深められたのだろう。リーメンシュイナイダーを軸に、一気に世界が広がった感じだ。

この本は私にとってプレッシャーとなった。借りたからにはしっかり読んで、中味のある「返歌」をしたためなければならない。うーむ、これは大変だが、ドイツ・ゴチックの美術に対する理解を深めるチャンスなので真面目に取り組もう。

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