ブラッドベリと「10月はたそがれの国」
少し日が経過したが、91歳の長寿を全うしたレイ・ブラッドベリについて触れておきたい。ブラッドベリを初めて知ったのは「10月はたそがれの国」(宇野利泰訳・創元推理文庫)だ。そしてこの作品は今日に至るまで、私にとってはブラッドベリの最高傑作である。
当時この作品を愛する仲間がいた。ある日、大学の昼休みに友人に「奇想天外」という雑誌の新刊が出たと伝えた。するとその友人は「また下らないもの買いやがって」と蔑むような口調で言って返した。すぐさま私は「でもブラッドベリ特集なんだけど」と切り返した。すると友人は「買うっきゃないじゃん!」ときた。
ブラッドベリ愛好家とはそのようなものであった。邦訳は全て読んでいるのが当たり前。ちょっと英語ができるなら原書も読む勢いだった。私も「The October Country」(Ballantine Books Science Fiction)を買い求めて格闘した。しかし挫折した。凝った文体でやたらに難しい。翻訳の有難さを味わった。
この短編集の中で「みずうみ」という衝撃的な作品がある。私はこの作品が大好きで、部分的にではあるが英語と宇野利泰の和訳を読み比べた。特にラストの一文は感動的である。
I walked back up the beach to where a strange woman named Margaret was waiting for me, smiling …
というのだが、宇野はこう訳している:
「ぼくがなぎさにもどると、そこに、見知らぬ女性が、微笑をふくんで、ぼくを待っていた。マーガレットという名ではあったが、見たこともない女性が・・・」
興ざめになるといけないので本文全体の内容は伏せるが、この衝撃的なラストの味わいを損なうことなく、しかしあくまで柔らかい文体にて、適格に訳した宇野の力量は素晴らしいと思った。
「10月はたそがれの国」には母体となった初期短編集があり、後日これも「黒いカーニバル」(伊藤典夫訳:ハヤカワ・SF・シリーズ)として邦訳された。
この中に収められた「みずうみ」のラストはどう訳されていただろうか。伊藤の訳はこうである:
「私は浜辺にあがった。そこには、マーガレットという見知らぬ女が微笑をうかべて待っていた・・・」
宇野訳に比べ伊藤訳はより直訳に近くすっきりとしている。訳者によってこうも違うものかとあらためて感心した。
私は個人的には宇野訳のほうを好む。私は鈍感(察しが悪い)ので、伊藤訳のようにさらっと訳されると、肝心のところ(この場合は、衝撃的な転換)がわからずにボーっとしたまま読み終えてしまう可能性があるのだ(苦笑)。
しかし宇野訳なら、「何かありそうだな」という雰囲気を醸し出しているので、ブラッドベリの意図を汲んで読むことができると思ったのだ。
以上の翻訳者比較は個人的趣味に基づいたものである。宇野、伊藤という素晴らしい翻訳者の優劣を論じるものではないことをお断りしておく。
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