清水 晃・吉野辰海 * 漆黒の彼方・犬の行方
「清水 晃・吉野辰海 漆黒の彼方・犬の行方」(埼玉県立近代美術館)に行った。久しぶりにおなじみF君と一緒で、チケットはF君が用意してくれた。いつもありがとう。
不勉強だが、この二人のアーティストは知らなかった。解説を読むと、1960年代にデビューしたとある。美術において、この「1960年代」という言葉はワクワクするような特別の響きがある。1920年代の「大正アヴァンギャルド」から30年後、1950年代に再びアヴァンギャルド旋風が巻き起こってさらに10年経過し、その熱気を継承してさらなる混沌へと突っ走った時代だ。
♪清水 晃は「漆黒から」というタイトルで統一された立体オブジェと、コラージュの作品集「目沼」が素晴らしかった。
「漆黒から」はチラシに採用されたが、写真ではその深い味わいが表出されない。これらのオブジェは本物を観ないとその真価がわからないだろう。一つ一つのパーツは日常的な物で際立った特徴は無い。しかしこれらが組み合わされると、呪術的な禍々しいオーラを発し、鑑賞者を異界へと導くのである。
「漆黒」という言葉の通り、ほとんどのパーツは黒く塗られている。この「黒さ」だけで闇の世界が手繰り寄せられている。しかしこれらの恐怖のオブジェは、それだけの理由で暗黒世界に向かう開口部となっているのではない。そこには作家の造形センスが注入されているに違いない。
コラージュ作品の「目沼」シリーズに目を向けてみよう。チラシ裏面にはその中の一つ「軋線」が紹介されていた。
これはマックス・エルンストのコラージュに類似した雰囲気がある。異なるのはエルストの作品、例えば「百頭女」などはモノクロームであるのに対し、清水の「目沼」は彩色されている点だ。いずれにしても、この殺気をはらむ画面を前にすると、思わず身構えてしまう。「目沼」シリーズはそれくらい「厳しい美」を放っていた。
清水作品には「色盲検査表No.6」という作品もあった。
漆黒から一転してユーモラスなたたずまいだ。清水晃の多面性がよく表れている。よく見ると、雑誌などから切り取られたヌード写真が散りばめられている。遊び心満載の作品だ。
♪吉野辰海の作品は好きになれなかった。それなりのインパクトがあるのだが、表現が直截的でどぎつさがある。 例えばチラシを飾る「SCREW 唐辛子犬」などだ。
また「象少女」シリーズは、可憐な少女の体に象の首を乗せた異種混合の形状をしている。これはシュールでグロテスクだ。それで思ったのだが、このような禍々しいイメージは文芸によって表現したほうが良いのではないか。
私はホラー小説が大好きだ。特にラヴクラフトの作品は、その深さが下手な純文学のレベルを超えていると思う。そして彼の小説には怖ろしい姿の怪物が登場する。しかし、文章の中で、である。読者はそれを読んで頭の中で怪物のイメージをおぼろげながら作り上げ、恐怖を味わう。これが奥ゆかしいホラーの味わい方ではないか。
吉野作品を文章で表現した作品があるなら、私はぜひ読んでみたいと思う。その中に「象少女」が登場した際、直接絵で見せつけるより、はるかに上質のシュールな楽しみがあるのではないか。そんな事を考えたのである。
ところが吉野作品の中にもユーモラスなものがあるから一筋縄ではいかない。チラシ裏面で紹介された「レインボープラン」という作品だ。
これは楽しい。この便器にはちゃんと「Mutt」のサインも描き込まれている。言わずと知れたデュシャンの「泉」だ。
以上のように、私の趣味嗜好が偏っているため、吉野作品より清水作品のほうをひいき目に観てしまった。しかし上にも書いた通り、吉野辰海にも作風の広がりというものを感じ、やはり人々の記憶に残る作家というものは一味違うんだなあと思った。
« 浜野美津子 歌曲コンサート | トップページ | 美術アーカイブ:1983年(1)ジョアンナとのコラボ絵本 »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。


フライヤーからしてわくわくさせる展覧会ですね。
渋いFさんの選択に似つかわしい。
埼玉は私はコシが重くてなかなか行きません。
マンダラ展のときは出掛けたのですが・・・
投稿: テツ | 2012年3月26日 (月) 07時34分
テツさんこんにちは。さすがF君でしょ?渋いが確かな選択眼を持っている。
投稿: ジョヴァンニ | 2012年3月26日 (月) 08時31分