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2011年12月 9日 (金)

美術アーカイブ:1979年(5)荻須高徳展

「パリを描いて50年 荻須高徳展」(三越本店)を観た直後の感想は、「前年に観た佐伯祐三には及ばないが、なかなか魅力ある風景画だ」というものだった。

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その後アート鑑賞を続けるうちに、荻須と佐伯夫妻をめぐる様々な情報が目に耳に入ってきた。まずは米子が夫・祐三の作品に加筆修正を施していたという疑惑。

これにより、絵筆の腕に関しては佐伯祐三が上で荻須が下だという序列に疑問符が付いてしまった。もしかして、達者な順に並べると、圧倒的に米子が上位でその下に祐三と荻須が同レベルでかたまっているという図式が思い浮かんだ。

そして米子と荻須の不適切な関係。これで米子と荻須に悪いイメージが根付いてしまった。それに比べると祐三は絵の実力で米子に劣っただけで、人間として悪いわけではないという評価に至り、祐三をまたひいき目に見てしまうようになった。

以上の結果、私は佐伯祐三とその作品を愛するが、米子と荻須は敬遠するようになってしまったのである。

しかし今日この「アーカイブ」を書いていて、また違うことを考えた。アーティストとその背後にあるどろどろした人間的なことを知るのは悪いことではないが、それにより作品への向き合い方がねじれてくるのはいかがなものか、ということである。

生の人間としてのアーティストを認識しても、それはそれとして、一方で純粋な眼で作品を鑑賞することも大切ではないかと思うようになったのである。そのような観点で荻須高徳展の図録を久しぶりに開いてみると、なかなか素晴らしいではないか。

これは振り子に似ている。背後にある邪悪な人間性を知って作品まで嫌になったかと思うと、そこから振り子が逆に触れ戻り、作品を純粋に鑑賞して感動する、そしてまた逆に振れる・・・この繰り返しである。

この単振動の中に身を置いているのは辛いが、それもアート愛好者の宿命なのかもしれない。またこれは、作家と作品を単眼でしか観ないことへの警鐘なのかもしれない。単振動による一種の眩暈に耐え、強い複眼を持つようになってゆきたいと思う。

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