| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »
2011年12月26日(月)
「サロン・コンサート ~ヴィオラとピアノの夕べ~」(鎌倉ギャラリー)に行った。
山中まりえ(ヴィオラ)、山本悠加(ピアノ)の二人の演奏家がソロと二重奏を行った。この会場は2005年に妻ジョアンナ(仮名)と共に「チェロとピアノのためのマドリガル」を自作自演したところで、雰囲気がよく心地よい響きが楽しめる会場だ。今回は久しぶりに同ギャラリーを訪れた。
作品の感想
西村 朗作曲 無伴奏ヴィオラ・ソナタ 第1番「旋回舞踊」について
私は音の構成そのものに興味があるので「旋回舞踊」というタイトルはとりあえず横に置いておく。この曲は協奏曲のカデンツァの様々な部分が組み合わさって一つの大きなカデンツァを形成しているような構造になっている。
カデンツァのようだと言っても、超絶技巧は要求していない。むしろ演奏者が弾きやすいような配慮がなされている。例えば左手の形を崩さずにそのままずらしてゆきながら分散和音を奏する箇所などである。
和声に関しては、モダンな響きが基調になっている。そして時おり古典的な三和音が鳴るので、はっと驚いてしまう。これは眠そうになった聴き手を起こすための方策であろうか(笑)。
演奏技法については、そんなに奇をてらってはいない。アルコ、ピチカート、フラジオレット、グリッサンドが中心で、それ以上の現代奏法(スル・ポンティチェロとかコル・レーニョなど)はほとんど見当たらなかった。多様な現代奏法オンパレードに走ってないところは好感が持てた。
音型は、分散和音、音階、跳躍する音など様々なパターンがあり、それらが奏法、強弱などと共に順列組み合わせで構成され、全体の形を作っている。こういうのもあります、ああいうのもあります・・・というように、演奏技法と音型の多様さを披露していくような感じだ。
そんな曲なのだが、全体として発散せず(バラバラな感じにならず)よくまとまって出来た作品なのではないかと思った。
さてタイトルだが、そもそも音楽は人間の感情とか事物を表現できない抽象芸術だが、いったんテキストが加えられると、そのテキストが具体的な感情や事物を表すようになる。そして聴き手はそのテキストによって発せられるイメージに誘導される。このタイトル「旋回舞踊」は、踊り子がくるくる回りながら精神の高揚に導かれていくという感じなのだろう。
そのイメージとこの曲の構成を重ね合わせてみようとしたが、あまりフィットしなかった。その理由を考えてみたが、単純な動きの連続による精神的高揚を目指すのであれば、音楽はもっとミニマル的な繰り返し構成のほうが相応しいからだと思う。
それに対してこの曲は同じパターンの繰り返しを避け、適度に変化を持たせながら進んでいく構造になっているので、構成的に飽きないという長所がある反面、連続旋回による高揚には寄与しにくいのではないかと思った。
このあたりに関しては、作曲者に作曲の意図を聞いてみたいと思う。何か他に仕掛けが隠されているのかもしれない。
私は演奏のことはわからないので、ひとこと「良かったと思う」としか言えない。具体性を伴わない感想では演奏者に申し訳ないと思うのだが、演奏の深いところがわからないのでご容赦いただきたい。特に印象に残ったのは、低弦での太い響きと、高音の優しさとの対比であった。
プログラム
♪バッハ:無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV1011
♪ドヴォルジャーク:愛の歌 Op.83 より第1,3番
♪同:ジプシーの歌 Op.55 より第1番
♪エネスコ:演奏会用小品
♪西村 朗:無伴奏ヴィオラ・ソナタ 第1番 <旋回舞踏>
♪ブラームス:ヴィオラ・ソナタ ヘ短調 作品120-1
アンコール
♪ドヴォルジャーク:ジプシーの歌 Op.55 より第4番「我が母の教えたまいし歌」
2011年12月19日
行きたかったけど行けなかった音楽会
『寺田由美パーカッションアンサンブル「ドライブ」クリスマスコンサート2011』(みなとみらいホール小ホール)は行きたかったのだが、別件と重なって行けなかった。
私は出演者の一人、斎藤祥子のファンなので、このコンサートシリーズには全出席するつもりだった。しかし同日、別のコンサートに行き、このコンサートには行けなかった。
同日、敬愛するソプラノ歌手「姫」(仮名)と妻「ジョアンナ」(仮名)が共演するコンサートがあったので聴きに行ったのだ。この二人を合わせると「姫とジョアンナ」になり、それを欠席すると単位が足りなくなり、卒業できなくなるのだ。
そういうわけでパーカッションアンサンブルのコンサートはパスしてしまった。祥子サマ、ごめんなさい。でも「姫とジョアンナ」に免じて許して下さいませ。
「再興第96回 院展」(そごう美術館:横浜)に行った。この招待券もF君から頂戴したのだ。F君ありがとう。
この展覧会は見ごたえがある。ハイレベルの作品が数多く展示されるので、観ていて飽きないし、充実感にひたることができる。そんな作品群の中で序列など付けようがないので、私にとって近しく思った作品の感想を書いてみる。
会場入口を入ってすぐ左に親しみある絵があった。♪宮廻正明の「天水」だ。
この作家に関しては成城さくらさくギャラリーで店主から説明を受けたことがあり、それ以来「気になる画家」になっていた。舟の漁師が放った網であろうか、構成感があり色彩も美しい。この絵は展示作品ではなく、図録の表紙絵というだが観ることができて良かった。
展示作品で最もインパクトを受けたのはチラシを飾っていた♪宮北千織の「地の衣」だ。キュビズム風の画面分割の中に人物がさりげなく描かれている。構成感、色彩、散りばめられた花などの形状、すべてが好ましい作品だった。受賞は逃していたが、チラシに採用されただけのことはある。
もう一つ印象深かったのは「足立美術館賞」を獲得した♪吉村誠司の「陽光」。
五角形のバックに楽しいアイテムが飛び回っている。構成感と幻想性を併せ持ち、かつ色彩が上品だ。こういう作品には弱いなあ。
半券に採用された♪福井爽人の「フロッテの灯」は淡い色調の中に童話の世界が広がっている。
絵本の挿絵のようであるが、大人向けの絵画作品という品格も持っていて素晴らしい。
その他、注目した画家と作品を列挙しておく(五十音順)。
♪狩俣公介「風影」<奨励賞>:モノクロームの魅力満載。
♪染谷香理「wipe」<奨励賞>:素敵な女性が素敵な画面におさまっている。正直なところ、こういう魅力からは逃れにくいものがある。
♪手中道子「緑萌」(りょくほう):不思議な奥行き感。どうやってこの効果をあげたのだろうか?
♪松岡 歩「悠々」:画面いっぱいのマンボウ。微妙な色彩の変化が素晴らしい。
♪松岡美樹子「水煙」:幻想的なたたずまいが良かった。
♪松村公嗣「晨朝」:鮮やかな青地に白く輝く花。
他の作品にも好ましいものが沢山あったのだが、記憶があまり鮮明でないので残念ながら割愛する。決してそれらの作品の印象が薄かったというわけではない。
今後もこの展覧会は毎回足を運びたい。
「池袋モンパルナス展」(板橋区立美術館)に行った。「20世紀 検証シリーズ No.3」、「ようこそ、アトリエ村へ!」という副題を伴った地味な展覧会だ。
私の絵画に関する趣味は抽象、キュビズム、シュール・幻想、心象風景に偏っている。これらのジャンルに外れた風景画、人物画、印象派などはあまり好まない。しかし例外がある。松本俊介とその作品だ。「俊介命」と言ってもいいぐらいだ。なぜこんなに松本俊介を敬愛するのか不思議だが、美術に関心を持ち始めた頃の刷りこみなのかもしれない。
「池袋モンパルナス展」に行ったのは、おなじみF君が招待券をくれたというトリガーもあるが、何をさておき松本俊介とその仲間たちという事が大きかったかと思う。
展覧会場に向かいながら、私は次のようなことを思った:
♪松本俊介の作品を除けば、あまり好みの作品はないだろう。
♪一般的な意味で、老成した完成度の高い作品は少ないだろう。
♪全体的に展示会場の雰囲気は暗いだろう。
そしてそれらの予想がすべて的中した。それでもこの展覧会の満足度は高かった。それは、(当時の)若い芸術家たちが寄り合い、必死になってアートを切り開いてゆこうとするオーラを感じ取ることができたからだと思う。そしてそのDNAは時代も地域も異なるが、「黄金町バザール」に継承されていると思った。
2011年12月19日(月)
「2011 X‘mas チャペルコンサート」(セント・ラファエル湘南教会《湘南クリスタルホテル》:神奈川県藤沢市)に行った。
このチャペルはウェディング・セレモニーの会場として新しく建てられたものだ。そのためヨーロッパの伝統ある教会のような重厚さをイメージすると期待を外される。その代わり(古い建物には無い)式典を盛り上げる仕掛けが建物に施され、活用されていた。例えば大小多数のステンドグラスがバックライトを受けて輝いたり、暗転したり、前が明るく側面は暗く、その逆などの順列組合せでライティングの効果を出していたことなどだ。
コンサートには「ステンドグラスの輝きとともに」、「キャンドルの きらめきの中で」という副題が付けられていたが、そのキャッチフレーズにマッチした演出が得られていたと思う。そしてこれは普通のコンサート会場で施される照明とは一味違った効果があるようにも思った。ただしステンドグラスはキリスト教の題材によって制作されたものなので、クリスマスキャロルなど、コンサートの内容もそれに合致したものでないと無理があるだろう。
演奏について書きたかったが、妻ジョアンナ(仮名)が出演したのであまり掘り下げたコメントはできない。ソプラノの右近史江が「私の名前はミミ」で存在感を示した。今後定番の歌になるのかな。テノールの藤田卓也が歌った「オーホーリィナイト」は圧巻だった。
ところで日本には歴史に根ざした「県民性」というものがあるらしい。そして特定の県同士では、はるか昔の出来事に端を発した相性の善し悪しが話題になることが多い。さて右近と藤田は・・・。この二人の素晴らしい歌手のコラボは、そのような過去の因縁を払拭する力を持っている。震災で困った今年こそ、互いに尊敬・協力し合うことが必要だが、この二人のユニットにはそのシンボルのような存在になって欲しいと思っている。
2011年12月17日(土)
「第2回 八幡山の洋館フェスタ: 洋館のクリスマス」( 旧横浜ゴム平塚製造所記念館:愛称『八幡山の洋館』)にチェロで参加出演した。私が加わったのはカッチーニの「アヴェ・マリア」といずみたくの「見上げてごらん夜の星を」の2曲だ。
この「フェスタ」は20のグループが順番に出演するお祭みたいな催しで、私達は「小さなおさらい会」のグループ名で参加した。これは毎年ヴァイオリン・ピアノの先生と生徒が毎年合同で発表会を行う際の名称だ。ただし今回はさらに「かつての少年少女探検隊」(略称KST)が加わり、そちらの勢力のほうが強かったので、実質上「大きなおさらい会」になってしまった(笑)。
KSTはジョアンナ(妻:仮名)と仲間で構成されているので、例によって演奏の感想は書けない。得意の「曲順評論」はプログラム曲順を決める段階で既に行ってしまった。あと残されたのは会場(八幡山の洋館)に関する事ぐらいかな。
この会場はサロン風の雰囲気で響きも良く、演奏会場として申し分ない。唯一の欠点は、音が響きすぎることだ。これは贅沢な悩みかもしれないが、アンサンブルをバランス良く進めるうえでは重要な課題となる。逆に無伴奏のヴァイオリン演奏などには最適の場所と言えるだろう。
この建造物は国の登録有形文化財に指定されている。もと英国人の邸宅で、火災焼失したあと復元された建物なので希少価値は小さいかもしれない。でも屋根の上の塔がお洒落だし、内部も素晴らしい。平塚市美術館に行くなら、その近くなのでぜひ立ち寄って戴きたいスポットだ。
オプ・アートについては、この展覧会に先立つこと2年、「ヴィクトル・ヴァザルリ展」を観ていた。これに関しては「美術アーカイブ:1978年(1)ヴァザルリ展」として記事にまとめた。その際、原発を美化して描いたヴァザルリの立場について複雑な思いを残してしまった。
しかし当時はそんな事が起こることを知るよしもない。その2年後、ヴァザルリ展の記憶が冷めないうちに観た「視覚の眩惑 ブリジット・ライリー展」(東京国立近代美術館)でもオプ・アートの魅力を充分に堪能した。
ライリーにとって初めての個展は1962年、30代になったばかりの頃だ。その頃から彼女は視覚の錯覚を利用した典型的なオプ・アートの作品を制作している。例えば1964年に描かれた「流れ」を観てみよう。
ここには作品名の通り「流れ」がある。湾曲した縞模様が錯覚により動いて見え、それが海面の波の動きのように感じ取れるのだ。
錯覚を利用した作品には様々なヴァリエーションがある。例えば同年に描かれた「燃える」は白黒の三角形状の模様に濃度の差を付けることにより、炎がゆらぐような独特の動きを感じさせる作品だ。
これらに先立つこと3年、模様の動きよりクイズ・パズル的な面白さを狙った作品が描かれている。「隠された四角形」だ。
小さい四角形が集まって形作られた大きな四角形はすぐ認識できる。しかしこの作品の面白さはそれで終らない。じっと眺めていると、絵に奥行きが感じられてくる。そして床、壁、天井のすべてに模様が施された四角い部屋の中にいるような錯覚に陥る。まるで原美術館に常設されたジャン=ピエール・レイノーの『ゼロの空間』に入ったようだ。
このようにブリジット・ライリーの作品には文字通り広がりと奥行きがある。形状や構成の変化もある。ユーモアのセンスも感じられる。私が芸術の必須要件とする「面白くて楽しい」という条件を完全にクリヤーしているのだ。楽しい展覧会だった。
私は構成感が強いアートが大好きだ。興味深い構成さえ感じられれば、線や面の純粋抽象でも、キュビズムのような構成化された具象でもどちらでも良い。
この「構成至上主義」はいつ頃から始まったんだろう?きっかけはいろいろ考えられるが、この「山口長男・堀内正和展」(東京国立近代美術館)がその一つであることは間違えない。
例えば山口長男の「かたち」。
チラシ裏の白黒写真でマチエールなどの味わいが伝わってこないが、それでもこの作品の楽しさは感じられる。この形、このバランス、この構成・・・観ていて本当に楽しい。
作品名は「かたち」だが、これは男という漢字の形状に似ているから「男」という名前でも良いと思う。あるいは純粋抽象を意識して「無題」でもいい。要するに標題などの夾雑物とは関係なく、作品そのものが魅力を放っているのである。
同じくチラシの裏面に置かれた堀内正和の「のどちんことはなのあな」。
こちらは作品が可愛らしくて面白い。内容的にも作品名がそのまま表出された形状をしていて楽しい。ここには理屈はいらない。ただ子供のように「面白い」と観ればいいのである。
堀内正和には「半分落ちそう」という作品がある。球をななめ半分にスパっと切断し、その上半分が少し下へずり落ちそうになっている作品である。この名称は一種のギャグのようだ。しかしただ寒いだけのギャグではなく、その背後には極度に理詰めともいえる構成への配慮がある。だから堀内正和の作品は、素晴らしいのだと思う。
いい展覧会に行った。
美術アーカイブ:1979年(7)その他
この年は今から思うとメジャーの展覧会に多く足を運んだが、総花的であり掘り下げた観賞はあまりしてなかったように思う。仕事が大変で、どちらかというと気晴らしに展覧会に出かけた感が強い。
1.遊びの要素が強い展覧会
♪ひろがる視覚世界 遊びの博物館(松屋銀座)
♪モナリザ・パロディ展(PARCO)
2.絵画以外
♪巨匠画家の彫刻展(上野の森美術館)
♪ART TODAY‘79 木との対話(西武美術館)
♪正宗悟 備前焼展(伊勢丹)
♪第11回国際版画ビエンナーレ展(東京国立近代美術館)
♪ヨーロッパ巨匠素描展(国立西洋美術館)
3.日本人画家
♪田中阿喜良展(三越)
♪野口弥太郎展(神奈川県立近代美術館)
♪岸田劉生展(東京国立近代美術館)
♪奥田元宗展(松屋)
♪前田寛治展(小田急百貨店)
♪第65回記念 光風会展(東京都美術館)
4.外国人画家
♪フォーゲラー展(リッカー美術館)
♪ルオー展(吉井画廊)
♪モディリアーニ展(大丸)
♪ルノワール展(伊勢丹)
♪モネ・ルノアール・ボナール展(東急本店)
♪スゴンザック展(西部美術館)
♪ベルナールビュッフェ「花」展(ギャルリーためなが)
5.流派・地域別の企画
♪ロシア・ロマン派の風景画展(三越)
♪19世紀オランダ絵画展(小田急本店)
♪イタリア印象派展(伊勢丹)
♪古代トラキア黄金展(池袋サンシャインシティー文化会館)
♪ポーランド国宝絵画展(神奈川県立近代美術館)
♪フランス美術栄光の300年展(東京都美術館)
5.外国の美術館展
♪ハンガリー国立美術館展(伊勢丹)
♪プーシキン・エルミタージュ両美術館から(東京都美術館)
♪ボストン美術館秘蔵展(西武美術館)
♪ルーマニア国立美術館展(大丸)
2011年12月10日(土)
「NOUVELLE VAGUE展」(Gallery CN:藤沢)に行った。
現役の美大生・芸大生5人の作品を、作家本人の解説付きで鑑賞するという贅沢な企画だ。それぞれの個性が際立ち、その一方で全体としてハーモニーを産み出しているような感じがして楽しかった。参画者は次の5人(苗字の五十音順、専攻については大学によって呼称が異なる)。
♪菊地 茜: 洋画専攻
♪菅原彩美: 油画専攻
♪鈴木那津子:油画専攻
♪鈴木夏海: 日本画専攻
♪西若千穂: 日本画専攻
5人それぞれアートに向き合う考え方も制作の志向も異なるから、全員の特質を一言で言い表すことはできない。しかし漠然とではあるが、一つの全体的な傾向を把握することができた。
それは、みな基礎技術は習得しているので、自分自身で「こう描きたい」という方向性が決まったら手を動かすのは容易だということから話が始まる。問題は「こう描きたい」という考えをどう絞り込むかである。それが大変なのだ。
表面的には、どのような題材を選ぶかというのも一つの絞り方だろうけど、もっと内面的なこと・精神的なことを掘り下げていったところで考えている作家が多かったようだ。
同行した即興演奏の相方と5人のアーティスト一人一人に声をかけ、具体的な詳細も聞くことができたのだが、ここに書いてよいかどうか判断がつきかねるので書かない。そのため上記のような曖昧な表現になってしまったのだが、まあ仕方ないかな。
ギャラリーの根岸氏、松岡氏の企画・運営の巧みさによるのだろうけど、会場では5人を競わせるのではなく、個性を並置してそれぞれの個性に接して観客が楽しめるような雰囲気が出来ていた。それが良かったと思う。
エゴン・シーレと荻須高徳で固く・暗くなったから気分を変えよう。「ユーモアと冒険の彫刻 ミロ展」(西武美術館)は説明の必要が無いと思うから、展覧会の感想を風物詩仕立てにするという新基軸(?)を打ち立ててみたくなった。





「パリを描いて50年 荻須高徳展」(三越本店)を観た直後の感想は、「前年に観た佐伯祐三には及ばないが、なかなか魅力ある風景画だ」というものだった。
その後アート鑑賞を続けるうちに、荻須と佐伯夫妻をめぐる様々な情報が目に耳に入ってきた。まずは米子が夫・祐三の作品に加筆修正を施していたという疑惑。
これにより、絵筆の腕に関しては佐伯祐三が上で荻須が下だという序列に疑問符が付いてしまった。もしかして、達者な順に並べると、圧倒的に米子が上位でその下に祐三と荻須が同レベルでかたまっているという図式が思い浮かんだ。
そして米子と荻須の不適切な関係。これで米子と荻須に悪いイメージが根付いてしまった。それに比べると祐三は絵の実力で米子に劣っただけで、人間として悪いわけではないという評価に至り、祐三をまたひいき目に見てしまうようになった。
以上の結果、私は佐伯祐三とその作品を愛するが、米子と荻須は敬遠するようになってしまったのである。
しかし今日この「アーカイブ」を書いていて、また違うことを考えた。アーティストとその背後にあるどろどろした人間的なことを知るのは悪いことではないが、それにより作品への向き合い方がねじれてくるのはいかがなものか、ということである。
生の人間としてのアーティストを認識しても、それはそれとして、一方で純粋な眼で作品を鑑賞することも大切ではないかと思うようになったのである。そのような観点で荻須高徳展の図録を久しぶりに開いてみると、なかなか素晴らしいではないか。
これは振り子に似ている。背後にある邪悪な人間性を知って作品まで嫌になったかと思うと、そこから振り子が逆に触れ戻り、作品を純粋に鑑賞して感動する、そしてまた逆に振れる・・・この繰り返しである。
この単振動の中に身を置いているのは辛いが、それもアート愛好者の宿命なのかもしれない。またこれは、作家と作品を単眼でしか観ないことへの警鐘なのかもしれない。単振動による一種の眩暈に耐え、強い複眼を持つようになってゆきたいと思う。
私はエゴン・シーレという画家はあまり好きにはなれない。悲哀さが強烈で、救いが得られない気がするからである。しかし「運命の画家 エゴン・シーレ展」(西部美術館)には足を運んだ。
好みからは外れていても、無視できないパワーを感じたからであろうか。それともチラシに遠慮がちに書かれた「特別展示 グスタフ・クリムト」に惹かれたからであろうか。シーレ作品の特質については、チラシの裏面に書かれた解説が素晴らしいので転記する。
「シーレのもつエロティシズムは、単なる世紀末のデカダンスとは遠い、赤裸々な人間の性と生を鋭い視座を通して追及したもので、激しい怒りをこめた内面の緊張感が漂っている。」
上記の文章は、シーレ作品を一度も観たことがない人でもその絵の様子がわかると思われるぐらい的確な説明だと思う。チラシを保存しておいて良かった。
「松本俊介 未発表デッサン展」(フマギャラリー:銀座)は、同時期に足を運んだ「エゴン・シーレ展」や「岸田劉生展」などに比べると地味な小さな展覧会だった。しかしこの「美術アーカイブ:1979年」では、それら大規模なイベントより先に取り上げたくなる大切な思い出であった。
私はアートに関しては、抽象、キュビズム、幻想を偏愛している。その私がなぜ松本俊介の作品を愛好するのだろうか?
それはたぶん、松本俊介の作品がどこかクレーを想起させる詩情に溢れているからだと思う。「クレー命」の私としては、「松本俊介命」でもあるわけだ。
俊介に対する思いは、その後今日に至るまで全く変わっていない。このまま生涯を通じて敬愛する画家であり続けるだろう。
「アメリカ美術・永遠の輝き、モビールと陽気なスペース: カルダーの世界展」(西武美術館)も印象深い展覧会であった。
カルダーといえばモビール。小学校の図画工作の授業で楽しんで作った頃を想い出す。これは「カマス」。
細長くて青い部分が魚の形をしているから、それがカマスなのかな。完全抽象でも面白いし、このように一部に具象を忍ばせるのも機知に富んでいる。
カルダーの作品はモビールだけでなく、地面や床に設置する大きな「ステーブル」もあるという事をこの展覧会で知った。これは「赤い台のある大きな白い円盤」。
こちらは作品名からして完全抽象ですよと表明している。でも動くと逆に生命を帯びた有機体のように見えてくるから面白い。
カルダーは絵本も制作している。これは「イソップ物語」。
私はこの絵葉書を大事に保管しておいた。婚約時代、ジョアンナ(仮名)にお気に入りの絵葉書を何枚か送ったが、これはそのうちの1枚となった。
カルダーの作品は楽しくて面白い。私が芸術作品の「必要条件」と考えている2つの要素を簡単にクリヤーしている。今後もカルダーの作品に出会う度に気持が晴れやかになることだろう。
1979年に観た展覧会で最も印象深かったのは「キュビズムから抽象へ ドローネー展 ロベールとソニア」(東京国立近代美術館)であった。
平面芸術で私が好むのはキュビズム、抽象、幻想の3つのジャンルだ。ドローネーは「オルフィスム」としてキュビズムと抽象の両方の要素を併せ持った作品を産み出したから、私の好きな3大ジャンルのうち2つも兼ね備えているわけだ。
では私はドローネーに本来のキュビズム作家たちより強く惹かれているかというと、必ずしもそうではない。むしろドローネーと交流の深かったジャック・ヴィヨンのほうがより私の好みに合っている。理由はヴィヨンの小気味いい直線構成のほうがドローネーの円環構成より好きだからだと思う。
そうは言っても、やはりドローネーの色彩と柔らかい抽象構成は捨てがたい魅力を持っている。今後も私の最も好むタイプ(セザンヌ、カンディンスキー、クレー、ファイニンガー、ジャック・ヴィヨン、ベン・ニコルソンなど)の若干下のランクに属してはいるが、気になる芸術家として愛し続けるだろう。
1978年は数多くの展覧会に足を運んだ年であった。それらの全てについての詳細を書き始めると、その後の記録が押せ押せで先送りになってしまう。そのため、この辺で同年は締めくくろうかと思う。
1.日本人画家による絵画
♪国吉展(リッカー美術館)
♪川端龍子展(三越本店)
♪古沢岩美展(日動サロン)
2.日本人以外の画家による絵画
♪ジャスパー・ジョーンズ回顧展(西武美術館)
♪オスカー・ココシュカ展(神奈川県立近代美術館 鎌倉)
♪ダリ・ピカソ・シャガール展(東急百貨店本店)
♪ユトリロ展(伊勢丹新宿店本館)
♪ルオー展(ギャルリーためなが)
♪世界の現代画家50人展(神奈川県立近代美術館 鎌倉)
3.工芸
♪日本のガラス展(小田急百貨店)
♪明日をひらく日本の現代工芸展(彫刻の森美術館)
♪スカンディナヴィアの工芸展(東京国立近代美術館)
♪第19回 暮らしを創る78クラフト展(銀座松屋)
4.その他
♪ボストン美術館展(国立西洋美術館)
♪名画との対話 トレチャコフ美術館名作展(東京国際美術館)
♪ファラオと王妃 ナイルの秘宝展(東京国立博物館)
♪奇蹟の聖像画展(西武美術館)
2011年12月3日(土)
「東日本大震災復興支援 クリスマスチャリティーオペラ あなたに届けたい、ほんとうのクリスマス vol.Ⅳ」は先日の記事に書いたとおり、二宮公演(二宮町 ラディアンホール)で裏方を担当した。それに続いて今回は鎌倉公演(鎌倉芸術館 小ホール)でも花の裏方を経験する機会を得た。
どちらの公演も妻(仮名ジョアンナ)が出演したし、鎌倉公演では「かつての少年少女探検隊」(略称KST)のメンバーも演奏に加わったので、演奏と企画・運営に関しては何も書けない。そこで今回のメインステージで演奏された作品「アマールと夜の訪問者」(以下「アマール」)の作品評を書いてみよう。
1.時代と全体的なスタイル
「アマール」の初演は1951年で、ベルクの「ヴォツェック」初演(1925年)のほぼ四半世紀後である。従って作曲技法的には既に「ゲンダイオンガク」の時代に位置している。しかし「アマール」は二宮公演で書いたとおり調性音楽に少しモダンな和声の味付けをした程度の新しさに留まっている。
2.楽曲形式
♪ライトモティーフ(的)
冒頭のソステヌートからアレグロに入ると一転して明るく開放的なハ長調でアマールの笛の主題が鳴る。楽劇ならアマール登場のライトモティーフに相当するのだろう。この転換は見事である。
♪再現部的な作り
母親が宝石を盗んだことを王様の一人メルヒォールが許す場面がある。そこでは冒頭のソステヌートが再現されており、あたかもソナタ形式の再現部のような構成となっている。このように古典派以降の音楽は何らかの形でソナタ形式の片鱗を留めることが多いように見受けられる。私はこれを「ソナタ形式の呪縛」と呼んでいる。
3.和声
♪七・九の和音
冒頭のソステヌートでは、古典ではさほど出現しない七や九の和音が多用されている。これにより、平明で澄んだ響きの中に奥行きを与えている。全曲中、最も美しい響きがする部分だ。
♪平行四度
三人の王様を自宅に導き入れた後、母親が薪を探しに外出する場面がある。その間アマールが王様の一人バルダザールと会話する際にオーケストラに平行四度が表れる。この平行四度というのは興味深い研究対象だ。古典の和声学で忌避される平行五度に比べ平行四度は受容されている。しかし他の和音の連結と比べると若干違和感を伴って響くのが面白い。
古典では、例えばベートーヴェンのピアノソナタ第3番ハ長調の終楽章の冒頭に平行4度が採用されている。私は子供の頃この響きを聴いて、どうも違和感を覚えたのだが、その理由がわからなかった。今でも、平行4度に起因すると理解しても、この違和感の正体は謎めいている。
♪多調
屋外で笛を吹いているアマールに対し厳しいお母さんがもう帰れと呼びかける。それに「はい」と応じるアマール。そこでは古典のオペラでは決して鳴らなかった多調(変ニ長調とハ長調など)が響く。この遠隔調同士の多調は、どこか遠くから聞こえてくるような響きがする。それまで浸っていた自分自身の時間を邪魔されて、うつろな気持で返答しているアマールの心境を表現しようとしたのだろう。
4.ポリフォニー
♪カノン(的)
真夜中に三人の王様が訪ねて来てノックし、アマールが恐る恐るドアまで行く場面がある。スタカートでアマールの足取りを表現しているが、ここでは単音である。同様のフレーズが何回か出た後、母親とアマールが二人でドアまで行くシーンになる。ここでは母親とアマールの二人の足音が二声のカノン(厳密ではないが)のように構成されている。その響きが面白い。
最初に単独の声部でメロディーに馴染ませ、その後複数の声部でポリフォニーを形成する際に「ああ、あのメロディーが重なったんだな」とわかりやすくする効用もあるかと思った。
♪ベースライン
踊りの場面で8分の9拍子になる部分があるが、そこでは跳ね回る高音の主題(ほとんど変化せず)に対し低音が下降・上昇のベースラインで支えている。これにより和声が順次変わり、ムードがうねりながら変化してゆく効果がある。
♪オルゲルプンクト的なオスティナート
アマールの笛の主題、および踊りの場面では空虚五度のオスティナートが用いられている。最低音は長調の主音(ド)で、連続して奏されるので、ある意味でオルゲルプンクト的な効果がある。例えばアマールの笛で低音はド・ソ(トニカ)の空虚五度が鳴っているのに対し、ある小節では「レシソ」(ドミナント)を4回続けて奏している。
一般的に、特に古典ではトニカとドミナントを同時に鳴らすことはないが、片方がオルゲルプンクト(あるいはオルゲルプンクト的なオスティナート)の場合はよく現れる。例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 第1楽章の第2主題では独奏ヴァイオリンが「ド」のオルゲルプンクトを続け、木管が和声を伴ってメロディーを奏するが、途中ではドミナントが鳴ったりする。でもそれを聴いて違和感を覚える人はいない。それと同様である。
このオルゲルプンクト(あるいはオルゲルプンクト的なオスティナート)は牧歌的でのんびりした田舎の感じを出すために使われることが多いと思うが、アマールの笛や村娘の踊りなどはまさにぴったりの適用だ。
5.拍子とリズム
♪変拍子
三人の王様に対する村人達のもてなし(村娘の踊りと供え物)に対し、王様達が礼を言う場面がある。今回の日本語版では「どーも、どーも、ありがと」と訳して歌われていた。この「どーも」は3拍子なのだが、「ありがと」は3拍子ではなく冒頭に休符を伴う5拍子なのである。何でもないフレーズであるが、このように拍子に微妙な変化を付けているあたりが芸が細かい。
余談だが、この「どーも、どーも、ありがと」は練習、ゲネプロを含め何回も聴いたので耳タコになってしまった。それ以降、人にお礼を言う際にこのフレーズが湧いて出てきてしまい困っている(笑)。
手元にフルスコアが無かったので、オーケストレーション面での分析はできなかったが、「アマール」の簡単なアナリーゼを試みた。冒頭で述べたように時代に比べて作曲技法は旧来の書法の範囲を出ていないと思う。しかし様々な書法を組み合わせ、効果的に活用しているということがわかった。結論として、「メノッティ、侮り難し」である。
最近のコメント