加藤一展に続いて三越の健闘を称えよう。「アメリカの心の故郷を描く アンドリュー・ワイエス展」(三越本店 7階 三越美術館)という重要な展覧会のことだ。
この展覧会の秀逸な点は最終的な作品と習作を並置し、制作の過程を追体験できることだ。そしてそれにより、絵画に関し様々な考えに導かれたのであった。
■当時の(そして現在に至る)思い:余白の美
例えば「3月15日」という作品を観る。現実そっくりのリアリズムが見事だ。
この習作を観る。周囲に塗り残しがある。

私はこの習作のほうが完成した作品より味わいが深く作品として良いのではないかと思った。そして西洋と東洋の違いに気がついた。西洋では、塗り残しがあったら作品として未完成だと考えるのであろう。それに対して東洋では「余白の美」という概念があるから、塗り残しは作品の不備にはならないという考えがあるのだろう。
こうして考えると、ワイエスの絵に東洋に通じるセンスが多少感じられるとしても、やはり西洋人なんだなあと思うのである。
■現在の思い:突き抜ければ具象・抽象も関係ない
代表作の一つである「決闘」を観る。
これには幾つかの習作があるが、そのうちの人物を含む1点を観る。完成版ではこの人物が消去され、立てかけられた釣竿により釣り人を暗示している。
先日観た磯江 毅の展覧会で私は突き抜けると具象・抽象という区別をしなくなる、というような感想を書いた。そしてこのワイエスの作品を(図録で)久しぶりに観て、まさに同じような感想を抱いた。
この「決闘」はどう見ても具象画にしか見えない。しかし作品から受ける印象は抽象画を鑑賞している時と似たものがある。そのあたりの微妙な感覚がキーポイントになりそうなのである。
磯江 毅の記事で書いた例えを用いると、この「決闘」は次のような「説明」ができる:
「画面中央に大きな長方形状の図形が鎮座している。よく見るとこの長方形は幾つかの長方形、三角形などの図形の集合体であることがわかる。またそれぞれの小さな図形は微妙に色彩が異なっており、変化が付けられている。この大きな長方形を斜めに分断するかのように直線が引かれている・・・」という具合である。
磯江 毅にせよワイエスにせよ、このように完成度の高い作品は、もはや具象だ抽象だという事にとらわれない境地に達している。もともと具象、抽象という用語は批評家などが考案したもので画家たちが最初から「よしこれから具象を描こう」と宣言するものではないはずである。しかし美術書などの知識により、どうもその辺りが本末転倒になっている気がしてならない。私自身のことである。
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