« 山下菊二コラージュ展 | トップページ | 彫刻家エル・アナツイのアフリカ »

2011年3月27日 (日)

辻晉堂展

2011年3月27日(日)
「生誕100年 彫刻家 辻晉堂展」(神奈川県立近代美術館・鎌倉)に行った。最終日ギリギリだった。

Photo

愛着を覚えたのは寒山拾得の伝承にちなんだ作品だ。大きな陶彫「寒山」と「拾得」は対峙するように置かれていた。さっそく絵葉書を購入。そのうち「寒山」は鬼才音楽ライターのハシビロコウさんに送った。

__3

それらの2作品の近くに、こんどは寒山と拾得を合体させた「寒拾」という鉄の作品があった。これはまた一段と重厚で渋い味わいがあった。

__4

その他にも陶彫の「顔(寒拾)」、リトグラフの「寒山拾得」などの作品があり、辻晉堂がこのテーマに愛着を持っていたことがわかって嬉しかった。

ユーモラスな作品も多く展示されていた。なかでも面白かったものを列挙してみよう:
♪潰れた空き缶をそのまま大きくしたような作品「潰罐形象」
♪茶碗に高く盛られたご飯を塔に見立てた「オマンマの塔」
♪招き猫の真似をそのまま作品名にした「マネキネコノマネ」

具象から出発して抽象、そして「反彫刻的彫刻」に至る辻の創造の過程がよくわかる展覧会だった。同行した妻(仮名ジョアンナ)も楽しそうだった。

« 山下菊二コラージュ展 | トップページ | 彫刻家エル・アナツイのアフリカ »

コメント

絵はがき、ありがとう。あとで「拾得」のほうも送ってくれて感謝です。ハシビロコウを鬼才だなんて、ではなくて鬼っ子です。ただ一カ所、アフリカの湖のほとりに棲み、たった一種類の魚しか食さず、じっとしていて、時々空を飛んでいるだけなのがハシビロコウですからね。
辻晉堂の作品には、というより作品名には、マグリットやマルセル・デュシャンへの共感がありそうでうね。でも、この「寒山」と「拾得」を見ていると、やっぱり日本の、日本文化のなかのクリエーター、と思いました。やはり禅という世界、日本の絵画の文化、歴史への意識があるわけですから。これはすごい作品だと思いました。いちばん頭の部分は口でしょうか、笑っている(哄笑)、とも、二人向き合って問答をしているとも受け取れます。寒山が持っているのは経巻(書物)、拾得の持っているのは箒、伝説に忠実です。では、その笑いとは、問答とは、と改めて鑑賞者に問うてもいる、ということになりますね。しかしまた、いたるところに口がある、目がある、耳がある、鼻がある、作品全体が顔とも受け取れなくはない。でも、伝統的な寒山拾得の画にある風狂な感じ、枯淡・孤高と洒脱、といった蘊蓄とかおせっかいな面はまったくないですね、辻さんの嫌うところでもあるでしょうし。
寒山作品と拾得作品の二つが似ているのは、分身という説があるからかも、ですが、僕は、拾得が寒山の分身という説があるからかも。しかし僕は、寒山も架空の人物、意図的な想像の産物と考えています。そもそも現世の愚劣さ、堕落を揶揄し哄笑する、自ら社会の疎外者というポジションをとった人物が大量の詩作品などを書きはしないでしょうからね。ある高名な禅僧が架空の人物を通して現実社会を批判、あるいは禅の真意を伝えようとした、と僕は読んでいます。
僕は、寒山は書物を持って形而上学的な存在、拾得は箒を持って形而下的な存在と意図的に分けているのでは、と考えています。僕は、「掃くという行為」が人間的にあるべきその全て、と受け取っています。箒で掃く、とはリアリズムです。
寒山拾得の絵はがきありがとう。

僕は二人とも実在の人物だと思っていました。ただ、巻物は教育を受けた頭でっかち人間、箒は頭は悪いが行動力がある人間を象徴して対比させたように思います。この点はハシビロコウさんのお考えと似ていますね。そしてその対比を強調するために、伝承の内容は実在の二人の特質から遊離して抽象化されたのだと思っていました。

でも、ハシビロコウさんの説(実在の人間ではない)のほうがありそうですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/163862/39389173

この記事へのトラックバック一覧です: 辻晉堂展:

« 山下菊二コラージュ展 | トップページ | 彫刻家エル・アナツイのアフリカ »

最近のトラックバック