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2010年8月19日 (木)

オノデラユキ 写真の迷宮へ

「オノデラユキ 写真の迷宮へ」(東京都写真美術館)へ行った。読売新聞の購読者サービスの一環で招待券を手に入れたのだ。読売さん、ありがとうございました。

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オノデラの作品を観て面白い着想を得た。「質量保存の法則」が発想の原点だが、作品のコンセプチュアルな側面と、作り込みの側面の合計は一定の値になるという論理だ。

例えば「オルフェウスの下方へ」(写真はチラシ裏面をトリミング:以下同様)を観てみよう。

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この作品群は、宿泊客が蒸発したホテルの部屋をオノデラが借りて撮影したものだ。行方不明の人物はこの部屋の真下(地球の裏側)にトランスポートしたというSFもどきの説話は多分にコンセプチュアルだ。その不可思議な雰囲気が強い分、写真そのものはあまり加工されていない。90度回転させている程度だ。

例えばこの作品のアピール度を100とすると、コンセプチュアルな側面が95で、写真の制作そのものは5というイメージだ。これが「質量保存の法則」と似通った論理だ。もしこの作品群に何も標題を付けず、何の説明も加えなかったら、単にホテルの一室の写真が横に倒されているだけ、ということになる。そこには何も面白味が無い。

この例でもわかる通り、アート作品におけるコンセプチュアルな面は、なかなか侮れない強さを持っているように思う。私はコンセプチュアル・アートをあまり好まないが、その訴求度は無視できない。

では、「トランスヴェスト」(異性の服装趣味:チラシより)はどうであろうか?

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この作品群は実際の人物ではなく、雑誌などから切り抜かれた人物の型に様々な加工を施して作り上げたものだ。そこには錯綜した趣味などのコンセプトが見え隠れしているが、コンセプチュアルな部分はあまり強くない。

先ほどの「質量保存の法則」でいくと、コンセプトが5で作品作り込みが95というように、「オルフェウスの下方へ」のほぼ対極にある。このような作品の場合は、ただ無心に作品を眺め、作品の発する幻想性を享受すればそれで良い。

「古着のポートレート」になると話がすこし複雑になる。

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会場に入り、まず目につくのがこの作品群だ。1作品に1着づつ、古着が大写しされている。石内都の「mother‘s」等を想起させる。作品の外観だけで充分迫力があり、そこにはコンセプトの裏打ちは不要との思いがよぎる。先ほどの計算式では、「トランスヴェスト」同様、コンセプトが5で作品作り込みが95という感じだ。

しかし話はこれで終らない。これらの古着はあのボルタンスキーが大量死の象徴として使ったものだというのだ。

あのクリスチャン・ボルタンスキーが係っているとなると、その一言でコンセプチュアルな要素が倍増するではないか。5対95でコンセプトが劣勢だったのが、一気に50対50にまで持ち直してしまう勢いだ。

こんな事を考え始めると、一種の眩暈(めまい)に襲われる。会場に入り何も説明がなければ画像そのもののインパクトで終ったはずが、説明文を読んで「ボルタンスキー」というキーワードが目に飛び込んだ瞬間にその印象が180度とまでいかなくても90度変わってしまう。このあたりがコンセプチュアルなものの不思議な点だ。

以上のように、この展覧会は「コンセプチュアルな側面の勢力範囲」というような解読の仕方で観てしまった。これが必ずしも望ましい方式だとは思わないが、なりゆきでそうなった次第。写真芸術は慣れてないから、まだ素直な目で観れないなあ・・・。

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