« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月28日 (土)

ジョンサン・ハーヴェィの室内楽

2010年8月26日(木)
ジョンサン・ハーヴェィの室内楽4作品(全曲日本初演)をサントリーホール(ブルーローズ<小ホール>)で聴いた。サントリー音楽財団サマーフェスティバル2010の一環で、ハーヴェィはそのテーマ作曲家だ。チケットは弦楽四重奏の仲間「上様」から譲ってもらった。上様、ありがとうございます。

Photo

ハーヴェィの作品を聴くのはこれが初めてだと思っていたが、実は2007年に聴いたことがあったのだ。すっかり忘れていた。その感想は当時のブログに残されているので末尾に再掲するけど、まずは今回の作曲評論から始めよう。

♪スリンガラ・シャコンヌ~15人の奏者のための~
単調な感じで、途中で飽きてしまった。その理由を考えてみた。冒頭から終結まで終始15声部の多くが鳴っていた。その組み合わせはいろいろ変えているのだろうが、全体としては音の塊のように響くので変化に乏しいように聴こえたのだと思う。スコアを読みながら聴けばその重層的な味わいが得られて良かったかもしれない。

♪隠された声2~12人の奏者とCDのための~
この曲も面白くなかった。作曲者自らが書いているように、主要素材をアンサンブルが意図的に覆い隠す部分が多かったからだろう。このような試みがいけないというわけではないが、これは多分にコンセプチュアルな要素が強いやり方だ。音の洪水に埋没した主題を探し当てるというクイズ的要素を強調したほうが受けたかもしれない。いずれにしても説明を付加しないと楽しめない種類の作品と言えよう。

♪シェーナ~ヴァイオリンと9人の奏者のための~
前の2曲が芒洋(ぼうよう)とした感じだったので、この曲は対照的に分かりやすく、私のような素人にも楽しめる内容だった。独奏・リピエーノ含めて10の声部で構成されているが、それらの組み合わせが「いい意味で」薄く、旋律と対旋律・伴奏音型がくっきりと聴こえた。例えばショスタコーヴィッチのピアノ五重奏曲を思い出してみよう。全員の重奏部分は少なく、実質上、二重奏や三重奏を繋いで曲が構成されているので個々の声部が把握しやすい。あるいはリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲の特に木管アンサンブルの部分とか、マーラーの交響曲の意図的に薄い編成で書いた部分なども類似している。

ただ楽器の配置についてコメントがある。ピアノに内部奏法を要求した箇所に関してのことだ。ピアノの近くにはハープとギターが配されていたのだが、それらの音がピアノの内部奏法の音色に似ていたため、分離して聴こえず、まとまって一種のクラスターのように響いたのだ。これは作曲者の意図だったのかもしれないが、私としてはこれらの3つの楽器を離し、音色の微妙な相違を愉しませるほうが得策だったと考える。

なおダブルベースにはかなり多くの部分でコル・レーニョ奏法を求めていた。結果として飛び跳ねるような歯切れの良い演奏でリズミカルな楽しさが増し良かったのだが、弓がさぞかし傷んだことだろう。弓がかわいそうになって感情移入してしまった。

♪弦楽四重奏曲第4番~ライブ・エレクトロニクスを伴う~
ライブの演奏音を採録し、それをある時はリアルタイムに、ある時は時間遅れで流し、ライブ音とのからみ合いを構成するという音楽だ。音の強弱、音色も同じだったり変化させたりしていたらしい。また採録音はホールの各所に設置されたマイクから順次送り出されるので、空間的な音構成ということもなされていた。

全体として、起承転結とか盛り上げという点に不満が残った。例えばライブ演奏をセンサーで測定し、演奏者がクレッシェンドし始めたらリアルタイムで同様の措置を施して採録音を流せば盛り上がりの効果が倍増すると思う。しかし今回使われた音響技術ではそのような措置が無かったと思う。また全体の流れという要素はプログラムに組み込まれていたのだろうか?何となくライブ音と採録音の係わりに方向性が感じられず、漫然とした感じに終ってしまったのは残念だ。

***
最後に2007年11月に聴いたハーヴェィの曲について触れておこう。場所はトーキョーワンダーサイト渋谷。竹ノ内博明ピアノリサイタル「喪失と回帰」で演奏された1曲がハーヴェィの♪「メシアンの墓」と「イェイツによる四つの映像」だったのだ。

当時のブログを再掲する:
http://giovannikki.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/
私はこう書いていた:
ジョナサン・ハーヴィーの「メシアンの墓」はCDで鳴らす音とピアノの生演奏とのからみが面白かった。一種のヘテロフォニー効果が生じていたようだ。

同じくプログラム最後に置かれたジョナサン・ハーヴィーの「イェイツによる四つの映像」では、ピアノの内部奏法で低音を叩き、くすんだ音を出していた。これが普通の奏法だと音が大きすぎて高音の部分を聴きにくくしてしまうだろう。そういう配慮かと思った。

高音と言えば、全体に共通していたのは、高音で奏される不協和音が鐘の音のように美しく響いていたことだ。ペダルを上手に使っていたのだろう。

2010年8月22日 (日)

エグルストン:パリ-京都

「ウィリアム エグルストン:パリ-京都」(原美術館)に行った。

Photo


エグルストンのことは古本屋で買った「アメリカの現代写真」(小久保彰著・ちくま文庫)で初めて知った。その本に掲載されていた作品は、デニス・ホッパーの絵画のように無人の風景が中心で、あまり強い印象は無かった。

Photo_2


今回、最近作を観て驚いた。色彩に詩情が溢れている!この感じはどこから来るのだろうか?赤と緑など補色関係にある色などにより、コントラストが強い構成となっているが、不思議とけばけばしさを感じなかった。これはただ事ではなさそうだ。恐らくエグルストンは色彩構成において天性のセンスを持っているのだろう。

往きは品川駅から暑いなかを歩いたが、帰りは「ブルームバス」という無料送迎バスに乗ることができた。このサービスはいつから始まったのだろう?知らなかった。

Photo_3

最近、写真作品を観る機会を増やしている。これを続けて、近代から現代に至る写真芸術の流れを実感できるまでになりたい。もうしばらく時間がかかると思うが・・・。

有元利夫展 天空の音楽

「没後25年 有元利夫展 天空の音楽」(東京都庭園美術館)に行った。

_

チラシのキャッチコピーがすべてを物語っている。いわく「久しぶりに 有元の絵に 会いたくなりました」。何という素朴な言葉で、また何という吸引力だろう。この一言でこの展覧会に行こうと決めてしまったのだから。

私は特にチラシに採用された「厳粛なカノン」と「室内楽」が好きだ。音楽を題材にしているし、不思議な世界が形成されているのが楽しい。

ところでこの「厳粛なカノン」の「カノン」は音楽用語(フーガ、カノンのカノン)と経典をかけた言葉なのだろうか?どうもそんな気がする。そういう余韻を残して鑑賞できたことは嬉しい。

ブリューゲル 版画の世界

「ブリューゲル 版画の世界」(Bunkamura ザ・ミュージアム)に行った。

__

人気で混雑が予想されたので、当初は平日に会社を休んで行こうと思っていたのだが、いろいろな事情で結局週末になってしまった。10時オープンに少し遅れたら、最初の展示コーナーではもう列が出来ていた。

ブリューゲルの版画のどこが好きかというと、私は正直なところボスの流れをくむ怪奇幻想趣味の作品群を第一に挙げたい。今回もそれらが観たくて行ったようなものだ。上に貼り付けたチラシに採用されたのは「聖アントニウスの誘惑」。このあたりが代表作かな。

同じ怪奇幻想の流れで「七つの罪源」シリーズも面白い。例えば「大食」(チラシの裏面よりスキャン:以下同様)。

___2

この対極に位置するのが「七つの徳目」シリーズだ。賢明なほうがいいですよ、正義感を持ちましょうね、節制を心がけましょう、希望を持って生きましょう・・・というような教義が7つ並んでいるのだ。これってつまらないよね。案の定ブリューゲルの作品もさほど面白くない。

子供の道徳教育を例にとって考えてみよう。教材がこの「七つの徳目」シリーズだったらどうだろうか?望ましい事が描かれているのだが、マジメ過ぎて面白くない。子供たちもあまり乗ってこないだろう。

これに対して「七つの罪源」シリーズを取り上げたらどうだろうか?怪物などの「怖いもの見たさ」で図版を楽しむに違いない。そしてその背後に隠されている道徳教義も多少は頭に入るのではないだろうか。このように「面白い反面教師」を導入することによって教育効果は倍増すると思うのだ。

ここで中学の同期生の美少女(いまは美女)が弁論大会に参加して述べた論議を思い出した。彼女いわく「人間は美しいものと、そうでないものばかり見ようとする」。これは名言だ。私も美しいもの(彼女のような美女)や、そうでないもの(ブリューゲル描く怪物)ばかり見ようとする性癖があるから(笑)。でも、人間は多かれ少なかれそういう特質を持っているのではないだろうか。

そんな事をグルグル考えたが、結論は一つ。ブリューゲルの版画は面白い。

2010年8月21日 (土)

絵葉書の世界 その12

これはおなじみF君からもらった絵葉書だ。さてクイズ。この作者は誰でしょうか?

Photo

うーむ、人目でシュルレアリスムの作品だとわかるな。でもこんな絵を描いた画家はいたかな?これは船の煙突だろうか?もしそうなら船乗りだったイヴ・タンギーの初期の作品かもしれない。

あれ「TIME」という文字が描かれていたぞ。これは英語だ。それならアメリカのシュルレアリストかな?エルンストと結婚したドロテア・タニングだろうか?でも作風が全然違うなあ。

あれ、よく見るとのっぺらぼうの白い人物は、東郷青児の「超現実派風の散歩」に描かれた人物に似ているぞ。そうだ、日本のシュルレアリストを忘れていた。でも他には誰も思いつかない。

「SK」という文字を見つけた。これは有力な手がかりになりそうだぞ。イニシャルかな?えーと、シュルレアリストでイニシャルが「SK」というと・・・あれ?一人も思いつかない。これは人名ではないのか。それでは何だろう?

美術用語に広げて探すと「製作者懇談会」が「SK」という略語になりそうだが、ちょっと違うようだなあ。

なんて事をいつまで考えても、わからないことはわからないのだ。というわけで絵葉書の裏を見ると作者名と作品名が書いてある。悔しいが答を見よう。

正解は高井貞二の「煙」だってさ。うーむ知らなかった。1933年の作品とか。大正アヴァンギャルドの少し後か。また一つ勉強になりました。F君ありがとう。

2010年8月19日 (木)

オノデラユキ 写真の迷宮へ

「オノデラユキ 写真の迷宮へ」(東京都写真美術館)へ行った。読売新聞の購読者サービスの一環で招待券を手に入れたのだ。読売さん、ありがとうございました。

Photo

オノデラの作品を観て面白い着想を得た。「質量保存の法則」が発想の原点だが、作品のコンセプチュアルな側面と、作り込みの側面の合計は一定の値になるという論理だ。

例えば「オルフェウスの下方へ」(写真はチラシ裏面をトリミング:以下同様)を観てみよう。

_

この作品群は、宿泊客が蒸発したホテルの部屋をオノデラが借りて撮影したものだ。行方不明の人物はこの部屋の真下(地球の裏側)にトランスポートしたというSFもどきの説話は多分にコンセプチュアルだ。その不可思議な雰囲気が強い分、写真そのものはあまり加工されていない。90度回転させている程度だ。

例えばこの作品のアピール度を100とすると、コンセプチュアルな側面が95で、写真の制作そのものは5というイメージだ。これが「質量保存の法則」と似通った論理だ。もしこの作品群に何も標題を付けず、何の説明も加えなかったら、単にホテルの一室の写真が横に倒されているだけ、ということになる。そこには何も面白味が無い。

この例でもわかる通り、アート作品におけるコンセプチュアルな面は、なかなか侮れない強さを持っているように思う。私はコンセプチュアル・アートをあまり好まないが、その訴求度は無視できない。

では、「トランスヴェスト」(異性の服装趣味:チラシより)はどうであろうか?

__2

この作品群は実際の人物ではなく、雑誌などから切り抜かれた人物の型に様々な加工を施して作り上げたものだ。そこには錯綜した趣味などのコンセプトが見え隠れしているが、コンセプチュアルな部分はあまり強くない。

先ほどの「質量保存の法則」でいくと、コンセプトが5で作品作り込みが95というように、「オルフェウスの下方へ」のほぼ対極にある。このような作品の場合は、ただ無心に作品を眺め、作品の発する幻想性を享受すればそれで良い。

「古着のポートレート」になると話がすこし複雑になる。

__3

会場に入り、まず目につくのがこの作品群だ。1作品に1着づつ、古着が大写しされている。石内都の「mother‘s」等を想起させる。作品の外観だけで充分迫力があり、そこにはコンセプトの裏打ちは不要との思いがよぎる。先ほどの計算式では、「トランスヴェスト」同様、コンセプトが5で作品作り込みが95という感じだ。

しかし話はこれで終らない。これらの古着はあのボルタンスキーが大量死の象徴として使ったものだというのだ。

あのクリスチャン・ボルタンスキーが係っているとなると、その一言でコンセプチュアルな要素が倍増するではないか。5対95でコンセプトが劣勢だったのが、一気に50対50にまで持ち直してしまう勢いだ。

こんな事を考え始めると、一種の眩暈(めまい)に襲われる。会場に入り何も説明がなければ画像そのもののインパクトで終ったはずが、説明文を読んで「ボルタンスキー」というキーワードが目に飛び込んだ瞬間にその印象が180度とまでいかなくても90度変わってしまう。このあたりがコンセプチュアルなものの不思議な点だ。

以上のように、この展覧会は「コンセプチュアルな側面の勢力範囲」というような解読の仕方で観てしまった。これが必ずしも望ましい方式だとは思わないが、なりゆきでそうなった次第。写真芸術は慣れてないから、まだ素直な目で観れないなあ・・・。

2010年8月16日 (月)

西澤伊智朗陶展

「西澤伊智朗陶展 カンブリアのカンブリアたる理由(わけ)」(茨城県つくば美術館)に行った。

Photo

西澤さんの作品には2年前、そごう美術館で開催された「朝日陶芸展」で初めて接した。その時はあまり印象に残らなかった。でも複数の審査員が高い評価をしていたので、素人の私には良さがわからないのか、ということが気になっていた。

今回あらためて西澤さんの作品群を観たら、前回とは全く異なる強烈なインパクトを受けた。あえて一言で表すと「生命力」ということになるだろうか?内包されたエネルギーが外に向かって放出された瞬間のような、そんな感じだ。

「朝日陶芸展」では単一の展示だったが、今回は多くの作品が「群れ」を形成していた。そのほうが迫力が増すので訴求力も強くなるというのは事実だろう。作品群を見渡して「カンブリアたる理由」を感じ取り、その全体的な「勢い」の流れのなかで個々の作品を鑑賞すると、味わいが違ってくるわけだ。

こうして考えると、「朝日陶芸展」の審査員は単一作品でも、既にその背後にあるものを読み取っていたらしい。それが素人には理解できなかったに違いない。そういえば、個々の事象をそれだけ見るのではなく、前後関係という流れの中に位置付けてみると、より掘り下げた理解が得られる。これは、歴史などの学習で習い覚えたことだったはずだ。それを応用できるかどうかの違いなのかな。

西澤さんの制作でもう一つ印象深かったのは、「ポアンカレ予想」のようは数理的な題材を原初的な作陶で表現した点だ。数学・物理学の内容を表すとしたら、定規・コンパスできちんと線を引いて構成するという先入観がある。しかし西澤さんは土と格闘した跡そのままのような有機的形状でそれを表現していた。

ここで突然大好きな彫刻家ブランクーシを思い出した。ブランクーシの作品は数学的な抽象構成に向かっているようで、同時に原始的・即物的な仕上げを見せる。ちょっとそのような両面的な感じを西澤作品から受けたのだ。

今年、西澤さんは冬虫夏草など新たなシリーズも始められた。今後の作品の展開が楽しみだ。

駆け抜けるシューマン

午前中の「よいこ」先生のおけいこ発表会に続いて横浜市イギリス館で開催したのが「駆け抜けるシューマン」[生誕200年]。シューマンが作曲したピアノ付き室内楽3曲を連続演奏するという過酷な耐久レースだ。

20100814

私は発表会でピアノとチェロを既に5曲弾いており、さらにこのコンサートでは3曲全曲に出演という体力の限界に挑戦する場となった。途中で指がつることを極度に怖れたが、幸いそれは起こらず最後まで行き着いた。しかし最後のほうになったら疲れは隠せなかった。高校同級生が聴きに来てくれたが、「よく体力もったね」と少々屈折した褒め方をしてくれた(笑)。

以下、記録性保持のため実績を列挙しておく。3曲とも作曲者はロベルト・シューマン、チェロはジョヴァンニなので、それらの記述は省略。

♪ピアノ三重奏曲 第2番 ヘ長調 作品80
ヴァイオリン「じゅんちゃん」、ピアノ「よいこ」というトリオレヴリーのメンバー。第1楽章はチェロだけトレモロを続ける箇所があり、そこでいきなり指がつるのではないかと怖れながらの演奏だった。

♪ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47
ヴァイオリン「上様」、ヴィオラ「マスコン」(某オーケストラのコンサートマスターにヴィオラを弾いてもらうという贅沢をしたのだ!)、ピアノ「港のヨーコ」。
今だから言うけど、アマチュアのレベルでは完全には弾けないところがあったんだ。チェロのパートのことだよ。そこをいかにごまかすかが課題だったんだけど・・・。

♪ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44
第1ヴァイオリン「上様」、第2ヴァイオリン「じゅんちゃん」、ヴィオラ「マスコン」、ピアノ「ジョアンナ」。
妻との共演という事情で、あまりみっともない演奏はしたくなかった。頑張ったんだけど、なにしろ疲労の極地で大変だった。腕は重くなるし、目はかすんでくるし・・・。

打上げはいつもの「大新園」。二次会は「アテネ」の松ヤニのワイン。やっと人心地ついた(笑)。

2010年8月15日 (日)

西洋館のミニ・コンサート

「西洋館のミニ・コンサート」という名のおけいこ発表会(横浜市イギリス館)に出演した。

Photo

いつも一緒に演奏しているトリオ・レヴリーのピアニスト「よいこ」さんのお弟子さん達の発表会に、「オープニング」と前半の「ピアノ独奏」の部では弟子のように、後半の「アンサンブル」の部ではサポーターのようにして出たのだ。サポーター活動はまあまあだったが、「にわか弟子」のほうは散々な結果だった。

[オープニング]
いきなり「よいこ先生」との♪ヨハン・シュトラウス作曲「こうもり」序曲の連弾。普通オープニングは先生と一番弟子さんが飾るものだと思うのだが、事情により私が弾いたのだ。それが、もともと下手な上に練習不足であちこちで事故が起こり、先生に大変迷惑をかけてしまった。もっとも、後に続くお弟子さん達は「先生たちでもあんなもんか」という自信を与える効果はあったかもしれない(苦笑)。

[ピアノ独奏の部]
恥さらしの極めつけはこの部の3番目で私が弾いた♪ベートーヴェン作曲ピアノソナタ第14番の第3楽章。子供の頃この曲が好きでいつか弾いてみたいと長年思っていたので、この機会に練習したのだが、自分のレベルより上の難易度だったので、散々な出来だった。「クワトロ半世紀」で一緒に弦楽四重奏を楽しむ仲間の一人SP君(ステージパパの略)の評価が的確だった。「50パーセントぐらいの音符を落としても、それを拾っては弾き、拾っては弾いてなんとか最後まで弾いたのは偉い」というんだ。

蛇足だけどベートーヴェン自身はこの曲を絶対音楽として、純粋な音の構成を作ったんだけど、後に詩人のレルシュタープが第1楽章をそう呼んだのがきっかけで、曲全体が「月光ソナタ」と称されるようになってしまったのだ。でもあそこまで音符が落ちると、どうでもいいけどね(苦笑)。

「アンサンブルの部」
嬉しかったのは「よいこ」さんと歌手がこの発表会の場で、♪新作歌曲「木々の緑よ」を初演してくれたことだ。作詞者も「よいこ」さんの友人の作品で、その詩に私が曲を付けたものだ。

他にはお弟子さんのピアノに「じゅんちゃん」のヴァイオリンと私のチェロを加えた三重奏を2曲演奏した。♪グノー(バッハ)作曲「アヴェ・マリア」と♪モーツアルト作曲「ディヴェルティメント ニ長調」だ。最後に「よいこ」先生のソロでショパン作曲ピアノ協奏曲第1番より第1楽章。じゅんちゃんの編曲でヴァイオリン2つとチェロで支えた。

ピアノ2曲、チェロ3曲の出番で疲れたが、この日はそれで終らなかった。その後のサロンコンサートでシューマンのピアノ入り室内楽を3曲連続演奏するという無謀な耐久レースが待っていたのだ・・・。

2010年8月12日 (木)

磁場を持つ地場

最近、地元志向が強くなってきたように感じる。生まれ育った故郷の気候風土や文化に慣れているため、そこに我が身を置くだけで心地よい。こういう事を思うのは、それなりに年をとったせいかもしれない。

また地場への回帰は、幼なじみの友人との互助的な意味合いもある。個人的経済力の低下に不況が追い討ちをかけ、仲間同志で助け合うことが切実な課題となってきたからだ。これは企業グループが、その勢力圏内に閉じた受発注に限定することにより、資本系列の中だけでお金をぐるぐる回すことに似ている。

このように、地元には私たちを引き寄せる磁力が働いている。つまり故郷には「磁場」があるのだ。そしてこの磁場は、単に吸引力として作用するだけでなく、文化的なものを手繰り寄せる魔力も有しているらしい。

一方「情報発信」という言葉がある。最先端のものを産み出し、その情報を他の地域、企業、人に向けて供給するということだ。これまで私はこの情報発信が有能さの象徴として極めて重要なものだと信じていた。

しかし最近考えが微妙に変わってきた。新奇で新鮮な情報は、常に他に向けて発信するほど産み出せるものなのだろうか?それは非常に困難ではないか?

ここで磁場の力を振り返ってみる。磁場があるところには、情報が引き寄せられて集まってくる。これは情報発信の逆で、ある意味「情報収集」だ。しかしその本質は異なる。他から発せられた様々な情報が磁場のあるところへ終結すると、そこが情報のるつぼとなり、情報同士がぶつかり合い、作用し合い、互いを変形させ、変異させてゆく。そこに全く新しい情報が誕生する。

思えば、人間の成長も同様ではないか。誕生して以来、他人からの情報を受け付けず、「唯我独尊」で一生自ら情報を発信し続ける人間が存在するだろうか?人間も他人からの膨大な情報を吸収し、噛み砕き、整理してゆくだろう。そしてその結果として、自ら新鮮な情報を発信できるようになってゆく。

こう考えると、私たちの地元は、これから私たちが育てる赤子のような存在なのではないか?私たちがアンテナの役割を果たし、情報を供給してやることにより育つのだ。

このような過程を経て成長した地元は、部分的には他地域の文化と類似していたとしても、全体としてはユニークなものになってゆく。そしてそれから始めて他地域に向けて「情報発信」ができるようになる。

「磁場を持つ地場」・・・これが私がこれから取り組もうと思っているテーマだ。そして私は喜んでアンテナの役割を担おう。そのためには、地元志向と一見逆の動きに見えるが、広く外の地域へ出てゆき、人と接し、他流試合を試み、その過程で得た情報を持ち帰るようにしよう。地元志向とは、ある意味外へ向かう志向でもあるのだ。

「地場の孵化器」はどこに設置しようか?友人が酒を持ち寄って集う「アトリエ」かな?アトリエの主人さま、ぜひよろしくお願いいたします。

2010年8月11日 (水)

アートなアートな昆虫の世界展

「アートなアートな昆虫の世界展 2010」(Gallery art truth:横浜)に行った。

Photo

ギャラリーに入ってまず展示作品のカラフルな美しさに目を奪われた。そしてそれらの実体が彩色などの加工を全く施していない昆虫標本だと聞いて驚いた。

画廊主によると、これらの作品と昆虫を描いた絵画作品とを並べて展示したことがあったそうだ。すると圧倒的に昆虫標本のほうが美しかったので、画家に悪いことをしたとのこと。今回の展示作品を観て、なるほどと納得した。

標本の前後に透明な板を配置して、両側から鑑賞できるように考慮された置物が展示即売されていた。蝶によっては、前後で紋様が全く異なる種類があり目を引く。ある種の蝶は羽の表面が華麗で、裏面が地味な落ち葉の模様になっている。裏面は鳥などの目をごまかすための擬態だと思うが、完璧な出来である。同種の蝶を複数用いて、表・裏の対比の面白さを強調した作品もあった。珍しいものを観ることができて良かった。

2010年8月 9日 (月)

真夏の夜のビートルズ

ライブ「真夏の夜のビートルズ」(クラジャ:藤沢本町)に行った。

Photo_2

小・中・高校の友人が誘い合い、10人程度の集団となって押しかけたものだ。地元の仲間は、どの学校で一緒だったかという記憶が不確かなことが多い。例えば今回私に最初に声をかけてくれたKさんは小学校と高校は同じだが中学は別という関係だ。しかし多くの仲間と一緒にいて出身中学の話をしていると、中学も一緒だったような錯覚に陥るから不思議だ。

ライブでは4組のバンドが演奏したが、それぞれのビートルズとの間合いの置きかたに個性があって面白かった。(説明は案内チラシから採りました)
♪シンガリ:ビートルズのコピーバンド
♪ホーボー:ビートルズを題材にしているが、全く独自の音楽を展開
♪マウントバッテンズ:ビートルズのパロディーバンド
♪リバー・フィールズ:ビートルズに沿いながら独自の味付けをする

Photo_3

楽器のアンサンブルにおいてはホーボーが優れていたようにみえた。しかし(恥ずかしいことに)後で気付いたのだが、このバンドはヴォーカルが少ないから楽器演奏に注力できるというアドバンテージがあったのかもしれない。

これに対して他の3組は弾きながら歌うところが多い。見ていると歌っているときはコードを鳴らす程度の簡単な演奏で、間奏などの際にフィンガリングの難しそうなパッセージを弾く、という繰り返しだったようだ。だから全体的な楽器演奏のレベルにおいてホーボーにかなわないように聴こえたのだと思う。

あとどのバンドのどの曲だか記憶にないが、突然J-POPの有名な曲の一節を挿入したように聴こえた。そう聴こえたのは1回だけだったが、もしかすると何回かそういう「遊び」をしていたのかもしれない。コピーバンドはそういうアレンジをしないだろうから、シンガリ以外のバンドだったと思う。

同じテーマ(ビートルズ)でも様々な関わり方があることを知ったライブだった。

2010年8月 7日 (土)

杉山功 個展

杉山功 個展 「神居 SANTUARIO」(東京画廊:銀座)に行った。

_

彫刻家の岩崎幸之助さんからこの展覧会のことを聞いたその日に早速観に行ったのだ。私は基本的には抽象作品を好むが、杉山功の作品は具象でも充分楽しめるものだった。

サイズ、形は異なるものの、作品の殆どは石の上に木で作られた建造物の模型が載っている。ある作品はパルテノンのような神殿を想わせるし、ある作品は険しい山の中の隠遁場所というたたずまいだ。

SANTUARIOはイタリア語で「聖地」とか「聖域」という意味だ。また「神居」(カムイ)は辞書によるとアイヌ語で神格を有する高位の霊的存在という意味だそうだ。なるほど杉山の作品には神のいます所という雰囲気が漂っている。

また作品番号#300や#305の小建造物の周囲には石庭を模した渦模様が刻み込まれていて楽しい。これは神聖なる作品にユーモラスな側面があることを示していて楽しい。

いいものを観て良かった。これで来週のコンサートには神の思し召しで大成功になるだろう(?)。

2010年8月 2日 (月)

八ヶ岳:石尊神社の怪

「かつての少年少女探検隊」(略称KST)で八ヶ岳山麓に行った。旅程のうちの1日は妻(仮名ジョアンナ)との結婚記念日だった。

その日に立ち寄った道の駅「南きよさと」で趣味の「路上観察」の格好の対象にめぐり合うことができた。まずは「レストランほたる」で定番の「信玄ソフト」(信玄餅をトッピング)を賞味。そしてリフトカーで100メートル上にある「南八ヶ岳 花の森公園」へ。

Dscf8470

このリフトカーは傾斜角度37度で標高差100メートルを3分半で駆け上る姿から「こいのぼり号」と名付けられている。麓が「まごい」駅、頂上が「ひごい」駅というネーミングはありきたりの発想だが、まあ良いのではないか。上から見下ろす道の駅もなかなかのものだ。

Dscf8474

花の森公園で、ジョアンナはブルーベリー狩りへ。暑さのなかこのような収穫をもたらしてくれたのは嬉しい。

Dscf8491

私はジョアンナ一行を見送った後、奥の森へ。何やら血が騒ぐ看板を目にしてしまったからだ。これは「せきそんじんじゃ」と読むらしい。

Dscf8477

よし神社を目指そうと足を速めたら、毒々しい赤い花。

Dscf8488

そして必要以上にサイズの大きい白い花。

Dscf8489

さらに赤い糸で結界が張られていた・・・と思ったら害獣除けの線だった。

Dscf8476

なあんだと思ったが、これらは何かの予兆かと思い気を引き締めて進んだ。(後にその不吉な予感は的中する)。すると2度も蜘蛛の巣に引っかかり、蟻の大群が行く手を遮り、生暖かい風が横から吹いてくるなどの現象が立て続けに起こった。これは興味本位で神社を見ようという不届き者を追い返すバリヤーなのであろうか?

すると、ようやく神社が視界に入ってきた。背後の高台に赤い祠(ほこら)が覗いている。

Dscf8486

近づくと神社と赤い祠の位置関係に奇妙な点があることに気付く。どうも両者は平行ではなく、どちらかが鉛直ではないように見えるのだ。

Dscf8485

そして由緒が書かれた看板を読んで、更に心騒がされたのは「平成11年、隣接地に公園が設置され・・・」という記述だ。なぜって、周囲には公園など何も無い!今年は平成22年だ。この「公園」は11年のうちに消滅したか、あるいは魔界へ転移させられてしまったのだろうか。

Dscf8478

こんどは神社の背後に回りこみ、赤い祠を見上げる。

Dscf8480

勇気を奮い起こして木製の階段を上り、赤い祠を間近に見る。扉はピタリと閉ざされ南京錠が掛けられている。果たしてご神体は何なのであろうか?「石尊神社」という名称からして、石化した何かだとすると・・・。

Dscf8481

そして最も面妖なのはこの写真である。祠の背後には石で造られた小さな祠が点在していた。そしてそれらの周囲には上部を赤く塗った杭が数本打たれ、環状の結界を形成していたはずなのだが・・・それらの杭が写真に写っていない!!!トリミングしたからなのであろうか?そんな事ないと思うんだがなあ・・・。

Dscf8482

神社を後にしてからも妖異は続く。往きと異なる道を進むと、また蜘蛛の巣が立ちふさがる。そして決定的なのは名状しがたい「森の中のクリスト!」

Dscf8487

横に渡された長い金属棒に、×の字型に組み合わされた木材が金太郎飴のように整列させられ、さらにその上にはロープで吊るされた黒いビニールシートが。これを見て思いだすのは梱包芸術家クリスト。彼は美術館や島を梱包してしまったが、木の杭は対象としなかったであろう。他の物の梱包に使ったかもしれないが。

ようやく森を抜け出し、花の森公園を通り抜けて「こいのぼり号」の「ひごい」駅に帰り着く。そこには小さな展望台があり、いま通って来た公園の受付がありある建物を俯瞰することができる。建物の屋根をつなぐと「Z」の文字が浮かび上がる。

Dscf8493

そして展望台に据えられた「希望の鐘」に「悪霊退散」の祈願をする。

Dscf8494

結婚記念日だというのにブルーベリー狩りの妻と別行動で魔界探索に出かけ、あげくの果てに魑魅魍魎の返り討ちに遭うという馬鹿なことをしてしまった、の巻。

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

最近のトラックバック