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2009年8月15日 (土)

鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人

「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」(東京オペラシティーアートギャラリー)に行った。

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これら4枚のチラシは「シラ-谷の者 野の者」という4枚の襖絵対応づけられており、このように横一列に並べると全体図が完成するという趣向だ。チラシ制作にも費用がかかるので大変だなと余計な事を考えてしまった。

この展覧会は地球の表面から内部へ向かい、地球の中心に達するまでの地底旅行というコンセプトが一本通されていた。またナイフなどのモチーフを繰り返し用いることにより、作品同士の内的連関性を強めていた。音楽に例えると「循環形式」に近いだろう。

既存の自作品をまとめあげるという点に関しては、文学になぞらえると、作家が既存の短編をいくつか繋ぎ合わせ、中・長編小説に仕立て上げるのに似ている。例えばレイ・ブラッドベリの「何かが道をやってくる」は「黒いカーニバル」などの短編集に収録された短編をいくつか並べて再構築したものだ。

しかし鴻池はそのような並列方式をさらに進め、個々の展示作の個性を保ちつつ、それらを作家自身が創作した一大叙事詩の中にプロットして示していた。言い換えると、展覧会体が一種のコンセプチュアル・アートになっており、個々の展示作品と共に二重構造を形成していたともいえる。

以前、「大竹伸朗・全景」という展覧会を観た。そこでは初期の作品から最新作までがおおよそ時間軸に沿って並べられ、無理矢理にコンセプトの統一は図られていなかった。そのため鑑賞者は作家の歩んできた道を追体験し、その中で各自それぞれが独自の印象を抱き、作家の全体像を自由に思い描くに任されていた。

今回の展示方法はその対極にあるような気がした。鑑賞者の自由度を考えると「大竹伸朗・全景」のように素朴に作品を並べるほうが良さそうだ。一方、鴻池のように作家が作曲家・兼指揮者のように部分・全体の重層的構造を作り、それらすべてを統治しているのを見るのもまた一興か。

最後に撮影自由のオブジェを楽しんだ。

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コメント

鴻池の個展を「音楽」の視点で捉えるジョヴァンニさんの分析
なるほどと思いました。

私はあの造りこみすぎた演出に
どこかテーマパークのアトラクションのような印象を受けました。

大竹伸朗の「全景」は展覧全体が壮大なコラージュのようで
部分も全体も自由な楽しみ方ができましたが
「インタートラベラー」は統制されすぎた構成が
個々の作品の詩情をそこなってしまったように感じました。

全体が制御されているので、個々の作品の興趣が損なわれたという点は私も感じました。

展覧会全体という作品が優先なので、個々の作品は部品の地位に甘んじてもらう、ということでしょうか。そこを好意的にみるか、批判的にみるかという分かれ目があると思います。

テツさん、今後ともよろしくご教示くださいませ。

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オペラシティアートギャラリーで鴻池朋子の個展を観た。4種類のチラシをそろえると新作「シラ―谷の者 野の者」の狼たちが勢揃いするという趣向が象徴するように、展覧会全体がひとつの緊密なインスタレーションを構成しているかのような、造りこまれた会場。「インタート...... [続きを読む]

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