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2009年2月25日 (水)

齋鹿逸郎 抽象への憧れ

2009年2月25日(水)
「鉛筆画の異才 齋鹿逸郎 抽象への憧れ」(藤沢市民ギャラリー)に行った。第8回目を数える藤沢市の「30日美術館」という企画だ。

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「さいか いつろう」という難しい名前の作家に関しては何も知らなかったが、素晴らしい作品が並んでいたので驚いた。大きい和紙に得体の知れない有機物のようなものが所狭しとぎっしり描き込まれている。離れたところから全体像を眺めてもいいし、近寄って一つ一つの奇妙な形状に見入ってもいい。

作品の題名はみな判で押したように「Untitled Continuous File」だから名前が無いに等しい。具体的イメージを示さない純粋抽象だから宗教画のルールみたいな予備知識が不要だし、小難しいコンセプトを振り回さなくてもよい。誰でも味わい、楽しむことができる。私の理想とする抽象絵画のあり方だ。

このような異能画家が最晩年の10年間、私の地元(藤沢市)在住だったことに誇りを感じるとともに、存在を知らなかったことに恥じ入ってしまった。

2009年2月22日 (日)

ピカソとクレーの生きた時代

2009年2月22日(日)
「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」(Bunkamura ザ・ミュージアム:渋谷)に行った。おなじみF君が招待券を調達してくれたのだ。F君何度もありがとう。

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クレー命をはじめ、愛するキュビズム、シュールレアリスム、青騎士などの作品がずらり並んだのでご機嫌だった。それだけに、展示作家はすべておなじみのメンバーだった。

逆におかしな現象が起きた。展示作品はほとんど過去に見たことがある感じ、つまり一種のデジャビューを味わったのだ。しかし今回の展示作品はノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館から貸し出されたものだ。同美術館は個人コレクションを母体として生まれ、あまり国外に作品貸し出しをしてこなかったのではないかと思う。そうすると、逆に今回の展示作品はすべて初めて目にするものばかりだったのか。過去に見たような気がしたのは、作風などにステレオタイプ的な予備知識を持っていたからだろう。

ステレオタイプ的なものをいい意味で裏切ってくれたのは、ジョージ・グロスのキュビズム風作品「無題・構成」だった。グロスのこの作品は、どちらかというとロシアの構成主義に近い感じがする。マレヴィッチの初期の作品だと言われたら信じそうだ。グロスといえばベン・シャーンみたいな線刻が魅力だが、このような全体構成で勝負した時期もあったのか。

もう一つ、一筋縄でいかなかったのはシャガールの「祝祭日」だ。登場人物の頭の上にもう一人小さな人物がくっついている、というシュールっぽい点も魅力だが、全体的にキュビズムなどを想起させる構成志向が見えて何とも心地よい。

カルロ・カッラ、モランディなど「いて欲しい」という作家がいてくれたのも嬉しい。ただカッラは良かったのだが、モランディはもっと「病んだ心象風景」的な作品を観たかった。

F君へのお礼の絵葉書は、迷いに迷ったあげくドローネーの作品を選んだ。淡いなかに芯が通った強さがあるので、F君向けだと思ったのだが、本当にその通りだったのかなあ。

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2009年2月15日 (日)

加山又造展

2009年2月15日(日)
「加山又造展 虚空に煌(かがや)く美」(国立新美術館:六本木)に行った。F君から招待券をもらっていたのだ。F君いつもありがとう。

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加山又造の個展は11年前に東京国立近代美術館(竹橋)で観ている。双方の展示内容を比較すると、絵画は以前観たほうが点数は多かったが、今回は工芸品の充実が目立った。従って、2つの展覧会をとおしての相互補完により、加山又造の作品の全貌が俯瞰できたことになり嬉しく思った。

そして前回と今回を通じて最もインパクトを受けたのは墨絵の「月光波濤」だ。その感動を永らく留めようと絵葉書を購入した。しかし、絵葉書ではこの作品の持つ深遠さが伝わってこない感じがした。やはり本物を観ないとダメだ。

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加山自身が「音にならない音」を表現してみたいと書いている。確かに、ここには怖いぐらいの静寂がある。荒波が岩礁に当たり砕け散っている光景が描かれているにもかかわらず、なのだ。この異様な静けさは何なのだろうか?

11年前の東京国立近代美術館では、記憶があまり正確ではないが、第一の展示会場から階段を上ったところにこの「月光波濤」が展示されていたように覚えている。下の階では彩色された諸作品を鑑賞し(それでも充分に満足だったのだが)上の階に移ってこの作品の前に立ち、ハっと息を飲んだような衝撃を受けた。

この作品の制作には、エアガン、バイブレーター噴霧器など(文明の利器)も活用したと加山は書き加えている。古典的手法だけでは完成し得なかったのだろうか?そのあたりをもっと詳しく知りたいと思う。

2009年2月 9日 (月)

誰も教えてくれない楽典:和音の呼称

2009年2月9日(月)
友人(ギョーム・サボリネール君)との会話。以下「ギョ」、「ジョ」と略記。

ギョ:やあジョヴァンニ君、久しぶり。
ジョ:ギョーム君、ご無沙汰だったねえ。
ギョ:今日は音楽で聞きたいことがあるんだ。
ジョ:なーに?
ギョ:「ソシレファ」っていう和音があるだろ?
ジョ:うんあるよ。それがどうした?
ギョ:これって「七の和音」と呼ばれるんだよね?
ジョ:うん、まあそうかな。
ギョ:僕、音楽は全然わからないけど、どうしてそう呼ぶか勉強してわかったんだよ。
ジョ:それは偉いな。

ギョ:一番下の「ソ」から一番上の「ファ」まで並べると「ソラシドレミファ」となり、それらの音を数えると7つあるから「七の和音」って呼ぶんだよね?
ジョ:そうだよ。
ギョ:まだ覚えたんだよ。上にもう1つ音を加えて「ソシレファラ」という和音を作ると、それは「九の和音」って呼ばれるんだよね?
ジョ:ほぅ、そこまで勉強したのか。すごいね。
ギョ:その上もわかるよ。「ソシレファラド」だと「十一の和音」だよね。
ジョ:完璧だ。

ギョ:でもねジョヴァンニ君、話はここからなんだよ。
ジョ:えっ何?(ちょっと不安になり始めた)
ギョ:じゃあ一気に簡単な「ドミソ」の和音に戻ってみるね。
ジョ:うん。
ギョ:これは「ド」から「ソ」まで「ドレミファソ」だから音が5つだよね。
ジョ:うん。(そろそろ何を言い出すか気がついた)
ギョ:でもこれって「五の和音」と呼ばず「三和音」って呼ぶんでしょ?
ジョ:そ、そうだよ。
ギョ:どうして?なんか不統一に感じるんだけど。
ジョ:い、いいところに気がついたね。(動揺している)
ギョ:なぜ和音の呼び方は、すっきりと体系だってないんだろう?

*ここから先はジョヴァンニの創作物語です。99%事実ではありませんので、あらかじめご了承ください。

ジョ:それはたぶん、最初に三和音が発見された時、音が3つあるという理由で「三和音」と名付けたんだと思う。そしてしばらくして「ソシレファ」みたいな和音が考案されて、いったん「四和音」と呼び始めたんだろう。
ギョ:じゃあどうして「四和音」が「七の和音」に言い換えられたのかな?
ジョ:ロシアに「すくりゃーびん」なる作曲家がおってな、「ドファシミ」みたいに4度を積み上げた和音を考案し「四度和音」と呼ばれるようになったんだ。これが「四和音」と紛らわしいので「ソシレファ」みたいな和音を「七の和音」と呼んで区別が明確になるようにしたのさ。
ギョ:本当かなあ?ジョバンニの言うことはいつもいい加減だからなあ。

ちなみに、この問題を某ピアニストに聞いたが、納得のいく回答を得られなかった。

2009年2月 8日 (日)

粟津潔 60年の軌跡

2009年2月8日(日)
「複々製に進路をとれ 粟津潔 60年の軌跡」(川崎市民ミュージアム)に行った。インフルエンザもどきの後遺症で若干頭痛がしていたが、そんな事は言っていられない。これは私にとって重要な展覧会だったから。

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そして展示は事前にイメージした通りの点数とバラエティ度で、内容も期待した通りのインパクトあるものだったので結果として大満足だった。

主力作品群であるポスターを観て思った。観客がこんなに素晴らしいポスターを観てしまった後、もししょぼい映画を見せられたら「誇大広告」として暴動が起きただろうな。だから映画配給会社としては、粟津作品をポスターに採用する場合はそれなりの覚悟で臨まないといけないという事になる。そのため脚本家も、監督も、俳優も、その他関係者すべてが必死になって取り組んだことだろう。そして、その結果として優れた映画作品が作られたのだろう。

以上は私の推測に過ぎないが、もしこれが本当なら映画ポスター製作者が映画制作関係者すべてを律することになる。まあ多少大げさな表現になってしまったが、それほど粟津の作品は強烈な印象を残すのだ。

初期作品を眺めて、すぐこれはベン・シャーンの影響だとわかった。しかしその線刻が達者で魅力あるのだ。悪く言えば真似だが、良く言えばベン・シャーンに学び、それを自分のものとして消化し、さらに高めたということになる。

後年の作品では、横尾忠則のポスター作品と見分けがつかないものもあった。これは互いの優れたところを取り入れ、自分の中で昇華させるという一種のコラボレーションと考えればいいのか。そういう点で、展覧会のテーマに掲げられた「複々製に進路をとれ」は私としては好感を持って理解したと思っている。

病み上がりに、このような充実した展覧会に行って疲れたが、満足度が高かったのでよかった。

2009年2月 5日 (木)

塀の中の樹木(続)

体が動かないので撮りためたゲージツ写真を順次アップすることにした。これはもう一つの「塀の中の樹」。場所は秘密。でもアートファンならわかってしまうかな。

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塀の中の樹

みずほフィルハーモニー出演で疲労がたまったところにウィルスに攻撃されたらしく、ここ3~4日インフルエンザもどきで寝込んでいる。心と体を癒してくれるのは大好きなゲージツだ。これは最近撮ったゲージツ写真。題して「塀の中の樹」。

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2009年2月 3日 (火)

マーラージョーク:謎かけ(続)

マーラーとかけて
遠山の金さんととく

そのこころは

名が杉(良太郎)
長すぎ

うーむ

マーラージョーク:クイズ

楽譜商ドブリンガーの社長が冬山で遭難した。彼の命を救うのは次のどちらでしょうか?

 A: ベートーヴェンの第九の自筆譜
 B: マーラーの第五の自筆譜

答えはA: ベートーヴェンの第九の自筆譜。
その理由は、
マーラーの楽譜は書き込みが多くインクが沢山染みているから長く燃えない。

マーラージョーク:謎かけ

マーラーとかけて
海水浴場に近い駅ととく

そのこころは

やたら夏季混む(やたら書き込む)
うーむ

2009年2月 1日 (日)

みずほフィル第15回定演

2009年1月31日(土)
みずほフィルハーモニー第15回定期演奏会(すみだトリフォニーホール)にチェロのおまけで出演させてもらった。

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演奏上ではチームに貢献できなかったのに、自分のほうは得難い経験をいろいろさせて戴き申し訳ない気がする。今回の経験を通じて、私は「孤独な独裁者マーラー」というイメージを抱くようになった。そしてそのおまけとして「二次会の起源」というくだらない事を考えた。

マーラーの楽譜には他の作曲家と比べて演奏上の細かい指示が細かく書き込まれている。それらを解読し遵守するには大変な時間とエネルギーを要する。なぜこんな面倒なことをしなけりゃならないんだ、と弾くほうの立場としては思う。

マーラーは現在のウィーン国立歌劇場(当時は宮廷歌劇場)の監督として君臨したという。歌劇場のオーケストラが自分の意のままに操れるという神様みたいな存在にのし上がったわけだ。マーラーはその地位を利用して、この歌劇場を自作の交響作品の実験の場として大いに活用したことだろう。

ここで一つ疑問が沸く。天皇みたいな立場にあるなら、楽団員はみなマーラーの言うことをきいて演奏するわけだ。それなら演奏上の細かい指示は練習の際に口頭で伝えればよく、わざわざスコアに書き込まなくても良いのではないか。マーラー自身が、なぜあえて面倒なことをしたのか。これにはいろいろ理由が考えられる。

例えば楽団員がバカで何回言っても守らないから、仕方なくスコアに書いてわかりやすくしたのだろうか。しかしこれはちょっと信じがたい。天下のウィーン宮廷歌劇場の演奏者がそんなに愚かだとは思えない。

ではなぜか?私は、特に根拠はないが、大胆な仮説を考えた。当時、楽譜は一種の「契約書」の役割を果たしていたという考えだ。楽団員は楽譜に書かれた事に従わなければならない。さもなければクビになる、というほど厳しい戒律があったのではないか。

そうするとマーラーの「書き込み」が意味を成してくる。楽団員のなかには作曲の素養があるメンバーもいて、曲の構成・解釈について独裁者マーラーの考えに異議を抱く人もいたのではないか。そういうメンバーにマーラーがいくら口頭で意思を伝えても、考え方が異なるので守ってくれない。そこでマーラーは反逆者たちを黙らせるために「契約書」(楽譜)に指示を書き込むようになったのではないか。以上が私の異端の説だが、これは自分でも少々乱暴な説だなと思う。

では本当はどうだったのだろうか?私はマーラーが偏執狂的で、細かい指示まで楽譜に書かないと気が済まなかったのではないか、という考えを本論としたい。このほうが自然だ。

この「本論」がもし正しいとしたら、当時の楽団員はマーラーの精神的な病のとばっちりを受けたことになる。ブツクサ言いながら天皇には逆らえず、仕方なく細かい指示に従って練習していたのだろう。独裁者マーラーは自己満足してタクトを振っている。これが私の描いた「孤独な独裁者」のイメージだ。

ウィーン宮廷歌劇場のオーケストラが演奏を終えた後、打上げなどがあったのだろうか。それは宮廷のレセプションルームかどこかで行われたのかな。王侯(ヨーゼフ一世?ジョヴァンニは歴史に弱いので間違えだったらすみません)も顔を出し、「マーラー君、今日初演した『第五交響曲』はなかなか良かったよ。」とか社交辞令を言う。調子に乗ったマーラーは「ハハァ陛下、有難き幸せ。陛下もご多幸で何よりです。」などとこれまたお世辞で返す。

こんな堅苦しいレセプションの席では、団員たちは言いたい事を言えない。これではストレスを発散する場がない。そこで打上げが引け、王様と独裁者マーラーがいなくなると楽団員たちはウィーンの街に繰り出し、酒場で飲みなおしたのだろう。独裁者がいない席では、マーラーへの悪口が飛び交っただろうな。そしてビールはあっという間になくなり、ビールやワインが次々と運ばれてくる。これが世界における「二次会」の起源である。

なお、以上の「二次会論」は今回の演奏には適用されません。指導して戴いた冨平恭平先生には誠意をもった指揮をして戴き、大変お世話になりました。誤解があるといけないので申し添える次第です。

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