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2008年8月30日 (土)

音楽の現在

2008年8月28日(木)
「サントリー音楽財団 サマーフェスティバル2008」の「音楽の現在」2夜のうち、室内楽のコンサート(サントリーホール・ブルーローズ(小ホール))に行った。

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名前も知らなかった現代の作曲家5人の作品が演奏されたが、手法的には奇をてらったものは少なく、「30年前の現代音楽」を聴いているようだった。思えば、作曲技法はコンセプチュアルな側面を含め、2~30年前に出尽くした感がある。

今回の作品も、プリペアード・ピアノ、ミニマルなど楽器法を含め、それ自体には新味がない手法の組み合わせで出来ていた。もっとも、新しい技法を提示するのが良いという価値感は意味がないとは思う。これはバルトークの「現代でもハ長調で音楽が書ける」という言葉を示すまでもないことだ。


ただ、聴衆というのは我がままな生き物で、現代曲というと何か新しい技法が紹介されるのではないかという期待感を持ってしまうものらしい。そういう私自身も、気持ちがそう動きがちだということは隠せないが。

こう考えると、プロの作曲家は大変だなあと思った。旧来の手法で結構いいものを作る力量を持っているのに、聴衆に妥協し、新しいものを生み出そうという努力も必要とされるからだ。

私は今回の5曲の中では、カルステン・へニッヒが17人の弦楽器奏者のために書いた「流れは河口を恐れる」(2002)が楽しめた。弦楽器を本来の奏法中心に鳴らし、心地よく、面白い響きが得られたからだ。

聴衆が拍手喝采したのはプログラムに「賛否両論が分かれるタイプの音楽」と評されていたフランチェスコ・フィリディの「フラメンコのフィナーレを伴う作曲家の肖像」だ。これは楽器を本来の奏法からかけ離れた扱いをした作品である。例えばピアニストは鍵盤を普通の奏法で弾くことはほとんどなく、鍵盤の上を撫でるようにして「シュー」という音を出したりする。

私はこのような楽器の扱い方は好まない。ピアノなどの楽器は本来、楽音を出すために製造され、今回演奏したピアニストはピアノで楽音を出すために研鑽を積んできたからだ。本来奏法を排除するなら、演奏者はすべてパーカッショニストにすればいい。そのほうが演奏の密度が上がるだろう。現に、今回のコンサートでもパーカッショニストとピアニストが並んでそのような奏法を行ったら、微差ではあるがパーカッショニストのほうが切れ味鋭い音を出し、演奏する姿もリズミカルな点で他の奏者より優れていたからである。

では、こういう曲はどういう意図で作られるのだろうか。それはコンセプチュアル・アートの世界だと思う。私は平面・立体・文学において、赤瀬川源平が好きだ。あの「トマソン」は素晴らしく、ついつい真似してしまう。このような戯れを好きか嫌いかはその人の好みだから仕方がない。「トマソン」を見て「何てくだらない」と思っても、それはそれで否定されるべきではないだろう。

この考えを今回の作品に当てはめてみれば、結局こういう作品のコンセプチュアルな側面が好きか嫌いかの違いで賛否が分かれるのではないか。私はそう思う。そして私は、音楽においては、逆に「嫌い派」に育ってしまったから、こういう作品を好まないにすぎない。

音楽におけるコンセプチュアルな側面のありように関しては、現代曲だけでなく、古典の作品にも考えてみる必要がある。例えばハイドンがソナタ形式で遊んだように。この件については、別の機会にでも記事を書いてみたい。

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