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2008年7月12日 (土)

エミリー・ウングワレー展

2008年7月11日(金)
「アボリジニが生んだ天才画家 エミリー・ウングワレー展」(国立新美術館)に行った。

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今回は記事を書きづらい。帰り間際に購入した絵葉書は素敵だったのだが、作品そのものはあまりいいと思わなかったからだ。

私は抽象作品が大好きだし、抽象作品こそ図版ではなく実物を観るべきだという強い意識を持っている。先日も、同級生の植物画家・松本千鶴の個展を観に行った際に「ジョヴァンニ君、絵葉書ばかり見ないで本物を観てちょうだい」と言われたばかりだ。

それなのになぜ絵葉書のほうがいいと感じたのだろうか?実は今回の展覧会を観て、私の観賞眼がだいぶ偏っているなと認識したのだ。そして今まで掘り下げていなかったことが見えてきたように思えた。

少々脱線するが、先日バウハウスの展覧会を観た。大好きな対象で喜んで楽しめたのだが、ふと今回のエミリーの作品とバウハウスに接するときの私の状況が似ているなと思った。

友人・知人にバウハウスの魅力を説いても、おおかた冷ややかな反応しか返ってこないことが多い。これまでその理由がわからなかった。そして今回エミリー作品に接して、その背景がわかってきたのである。

先にバウハウスのことから掘り下げてみる。バウハウスには私が大好きなクレー、カンディンスキーが教鞭を取っていた。「あんな学校で学んだら楽しいだろうなあ」というのが私の想いだ。そしてバウハウスを主体とした展覧会があると、その「命」の後ろ盾で最上の喜びとして接してきたのだ。作品鑑賞の「前提条件」というか「準備」というか、そんな感じのものがあったのだ。

これに対してクレー、カンディンスキーなどをさほど好まない人にとっては、バウハウスは単なる美術学校にすぎない。そしてその展覧会にバウハウスに在学中の生徒たちの作品が加わったら、技術の未熟さゆえに敬意が削がれるのだろうと思った。

ご本尊のクレー本人の作品にしても、仕上げが雑に見え、色調も渋くて暗い。その背後にある「造形思考」などはどこかに吹っ飛んでしまうのだろう。これがバウハウス支持派からすると悔しいことなのだ。

そして今回のエミリーに戻る。エミリー作品を本来あるべき形で鑑賞するためには、オーストラリアのエミリーが在住した地区に住み、生活し、エミリーの創作を見ることが必要だろう。しかしそれは多くの人にとって叶わないことだ。

でも間接的にでもエミリーの生き様に同調し、理解し、愛すれば、それが作品鑑賞の「前提条件」というか「準備」になるのだろう。

これに対して、私はエミリーを単に抽象画家の一人として敬意を持って観賞しようとした。これが裏目に出たというか、作品だけに相対するという態度は、このようなアーティストとその作品には相応しくないのだろう。それを認識したのだ。

それでやっとわかった。絵葉書にしてしまえば、原初的、呪術的、生活的な人間エミリーが薄まり、抽象構成だけが全面に出てくる。そしてそれらの中で自分の感性に合った作品を眺めたら、いいと感じるのは当然だ。

エミリーの個展がまたあるのなら、次回はバウハウスに対してと同様の愛情をもって、あらためて観賞してみたい。今回は抽象構成だけを強引に搾り取って観賞した形になってしまった。道を外れたと思うが、長い目でみたらよい勉強になったと思った。

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コメント

それで良いのでしょう、様々なアプローチがある訳だし、同時にいくつも出来るわけじゃなし、・・・。

サリィ~さんたちも行ったようですよ。
そして感想は
『紛れも無くチャネリング』だそうです。
はい、受け取り方は複数あります。
あっ、彼女自身のコメントは・・・聞いたかな?忘れた。

ガンディスキーさんコメントありがとうございました。

チャネリングですか。なるほど。もしかしたらそれがエミリー作品解題の最大のヒントかもしれませんね。

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