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2007年4月29日 (日)

リアルのためのフィクション

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靉光展に並行して開催された「リアルのためのフィクション」(同じく東京国立近代美術館)を覗いてみた。やなぎみわの作る「案内嬢の部屋」にずらっと並んだ制服姿のマネキンは既におなじみになっていた。何か新しい発見はないかと見回すと、ソフィ・カルの「B.C.W.」連作があった。

案内の小冊子によると「あるルールを決めてそれに基づいて行動し、その記録を作品とする」とある。ふうんこれは面白いなと思った。そしてこれは作曲に応用できそうだと考えた。昔ジョン・ケージが「チャンス・オペレーション」なるものを考案したが、それに近いコンセプトになりそうだ。

例えばソフィ・カルの真似をしてみよう。演奏者は「B.C.W.」に関係あるものを連想して順番に奏するというルールを設け、それに従って音を出してもらうんだ。ピアノの前に腰掛けてさあ始めよう。

まず「B」は「Balloon」(風船)を連想してボァーンとした感じの音を鳴らす。次に「C」は「Chair」(椅子)を連想し、腰掛けている椅子を打楽器みたいに叩く。最後に「W」は「Water」(水)を連想し、渓流がさらさら流れている様を音に表現しようとする・・・。こんな具合だ。

これは即興の経験があればなんとかできそうだ。ジャムセションか何かでやってみたいな。

靉光展

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「生誕100年 靉光展 闇の奥に鋭く光るもの」(東京国立近代美術館)に行った。作品の暗さにはついてゆきにくい部分もあるが、暗い画面の背後にある種のエネルギーが感じられた。キャッチフレーズではそのエネルギーを「光」と呼んでいるが、「力」にも置き換えることができそうだ。

私はラッキーな鑑賞者だ。暴漢によって傷付けられた「眼のある風景」を、その事件前に観る機会があったからだ。つまりオリジナルと修復後の両方を見比べることができたわけだ。また細かくいうと、修復作業も何回かに分けてなされたようで、その過程も2度ほど目にしたと思う。

というのは、事件後まだ日が浅い時期に修復された作品を見たら、「眼」の周辺で絵の具の塗り方がとても粗末だったのだ。塗り方も粗雑だし、色調も周りとマッチしない。そして、しばらくしてからもう一度見たら、こんどはだいぶましになっていた。それでも、今回の最新の状態を見ても、事件前のオリジナルの凄みには回帰していなかった。誠に残念である。と同時にオリジナルの状態をこの目で観たことを本当に幸運だったと思う。

靉光と言えばこの「眼のある風景」が中心となってしまう。今回は別の靉光を探そうと思って観たところ、初期自画像が目にとまった。今回は晩年の有名な自画像3つが揃い踏みだった。それらは、さすがに威厳と重みを感じさせたが、初期自画像もなかなか興味深かった。絵葉書に仕立てあげられたところを見ると、やはり重要作品だと判断されているのだろう。

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服の色彩の渋さ、そして石の壁を想起させる背景の質感・・・これが抽象画だったとしても十分通用する。また赤と緑の補色関係にしても、双方が中間色で渋いためどぎつさを感じさせず上品に仕上がっている。確かにこの作品を晩年の自画像に並べたら浮いてしまうが、また別の味わい・別の世界にある作品だと思う。


他には、♪「静物(魚の頭)」(展示番号41番)と「花園の虫」(同46番)に描かれたボッシュを思わせる巨大魚や、壺を描いた「カット(9)」(同M13)のようなセンスのいいカット作品が印象に残った。日本画の中では「あけび」(展示番号86)のコンポジションが小気味良かった。もちろんシュール好みにとっては、「作品」(同90,91,94)の奇怪なドローイングも捨てがたい魅力を放っていた。

2007年4月28日 (土)

ブルーノ・タウト展

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「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」(ワタリウム美術館)を観た。桂離宮の画帖と絵手紙が素晴らしく、強い印象を得た。 アーティストとしての建築家を想うとき、まず第一に惹かれるのはコンセプトとドローイングの二つだ。

作品としての建築をさておいて、という事になるので少々不謹慎な言い方かもしれない。しかしこれには理由がある。 絵画や彫刻、音楽、文学などに比べて建築が背負っているハンディがある。それは人間がその中で居住しなければいけないという制約条件だ。この締め付けはハンディなどという生ぬるいものではなく、ほとんど「原罪」に近い致命的な、マイナス要因として機能している。 そのような不利な条件の下で建築家が自己を表現し、アピールするためには建築という作品以外に広告塔を持たないとやっていけないと思うのだ。そしてその広告塔に相当するのが、カッコいいコンセプトであり、素敵なドローイングだというわけだ。
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ブルーノ・タウトの場合、アピール度が強いと思ったのはドローイングで、具体的には画帖「桂離宮」と数々の絵手紙だ。「桂離宮」は敷地に足を踏み入れてから目指す建物に至るまでの道筋を仔細に説明すると同時に味わい深い絵で飾り、さらにそこに宗教的にまで深められた思索が盛り込まれている。単なる大人の絵本ではなく、文学・思想と美術の一人コラボレーションとでも呼びたくなる逸品だ。
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また絵手紙は、画超「桂離宮」ほどの完成度がない分、自由奔放な筆致の中に踊る知性とセンスのほとばしりが感じられる。手紙なので、部分的には世間話のような内容で芸術的鑑賞に耐え得るかどうか疑問なところもあろうが、それらが集積して全体としての絵手紙を構成すると、それはもう幽玄な墨絵の世界に近い。

こんな手紙を受け取ったらどんな気分になるだろうか。そして、こんな手紙を描いてみたいという願望を抱いてしまう。しかしこれは画家としても達人であるタウトだからできる領域だろう。それはよくわかっているんだが・・・。

2007年4月23日 (月)

藤城清治 光と影の世界展

「藤城清治 光と影の世界展」(そごう美術館)に行った。想像以上に素晴らしく、感動した。

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よくカッコつけてこんな言い方をすることがある。「墨絵などはモノクロームでありながら、微妙なグラディエーションの構成により色相を感じさせる。そしてそれは彩色した絵より、もっと深みのある色彩感に溢れている・・・」なんちゃって。藤城の初期(モノクローム影絵時代)の作品はそのような感性に支えられていると思う。そして後年の彩色された影絵より上品で優れている・・・と考えていた。展覧会を観るまでは。

しかし豊かな色に飾られた影絵を目に前にすると、もう理屈が通らなくなる。こんなに素晴らしいものがあったのか、という具合だ。そして素直に極彩色の影絵を楽しんでしまうのだ。

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なかでも影絵壁画「光彩陸離」は格別の美しさだった。これはレプリカで、実際の壁画はその何十倍もの大きさだと知って驚いたが、レプリカでも感動してしまう作品なのだ。その一部「残照」が絵葉書に仕立てあげられていたので買ってきた。この絵葉書だけでも美しいが、こんなのが沢山集まって巨大壁画を形成しているんだ。

というわけで、今回の展覧会は「素直に感動しよう」ということを教えてくれた。そうだよなー。ブログを書こうとすると、つい理屈に走りがちだもんなー。藤城清治に脱帽。

2007年4月18日 (水)

切手って楽しい その4

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これはアメリカの20セント切手。かわいい。子供が描いた絵のようだ。「The United States of America」という文字も子供の手書きのようだ。

でもこれ、本当に子供の絵と字だろうか?あまりにもバランスよく描かれているので、疑ってしまう。もしかしたらプロのイラストレータか画家が幼児に似せて描いたのかもしれない。配色もいいし。

まあでも子供の絵だと信じよう。体調が悪くて落ち込んでいる時なんかに効く「よい薬」になりそうだから。

2007年4月15日 (日)

おさらい会で弾いたクープラン

妻(ピアノ)と妻のいとこ(ヴァイオリン)のお弟子さん達のための合同発表会があり、弟子のような、そうでないような中途半端な形で参加した。聴き手(出番以外の人と家族)が飽きないように、ピアノとヴァイオリンの演奏順を交互にした。18人(先生を含め)の中でただ一人チェロだったので、真ん中あたりの順番にしてもらった。

弾いたのはクープランの「コンセール」。有名なコンセールではなく、マイナーな曲をチェロ独奏とピアノ伴奏に編曲したものだ。原曲は、よくわからないが独奏ヴィオールとヴィオールのアンサンブルのために書かれたものらしい。

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フランスの方には失礼だが、フランスの楽譜はいいかげんなものが多く、この楽譜(ルドゥック社刊)も強弱やアーティキュレーションの付け方が不自然なところが多かった。元々編曲ものだし、譜面に書かれた強弱やアーティキュレーションは無視して自分が良いと思った方法で進めた。演奏の出来については聞かないでね。

2007年4月10日 (火)

チラシらしさ その1

「半券の復権」シリーズを始めている。しかし本来ならそれに先立ってチラシを紹介し、こちらも隅に置けないぞと言って半券を披露するのが順序というものだろう。それがなぜか逆になってしまった。まあいいか、そんなことはどちらでも。

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それより気になったのは、私はここしばらくの間、殆どの展覧会でチラシと半券の両方を大事に保存している。このように別々に扱うより一緒に紹介したほうがいいのではないかと思い始めている。でも「半券の復権」が軌道に乗っているようだから(本当か?)その勢いを殺ぐのももったいない。やはり別々にしよう、と思って今回チラシの紹介を始めたんだ。

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両者のすみわけをどうするかだが、良いと思ったほうに分類すればいいかと思う。例えば今回紹介するチラシは半券に勝っていた。

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というわけで前置きが長くなったが、「ドイツ陶芸の100年」(2000年の年末~翌年の2月:東京国立近代美術館工芸館)のチラシを紹介しよう。このチラシがすごいんだ。

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何がすごいかと言うと、この「シゲキがいっぱい」というキャッチフレーズだ。国立の美術館で、しかもさらに坂を上った工芸館で、かつ陶芸という地味なテーマで、なおかつドイツの陶芸という超オタクな展覧会なのでマイナーの4乗ぐらい地味な催しだから、逆にこのような若者のノリで決めたかったのだろうか。しかしこのてのキャッチを国立の美術館が打ち出すのは勇気が必要だっただろうな。企画者の勇断に拍手を送りたい。

2007年4月 9日 (月)

半券の復権 その4 

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これは1980年冬に今は無き西武美術館で開催された「ヴンダーリッヒ展」の半券だ。さすが西武。作品の基調をなす赤で全体をカラーコーディネートし、上品な中に妖しいヴンダーリッヒの雰囲気を封じ込めている。上部の黒地に赤の文字も素敵な取り合わせだ。「夢とエロスの錬金術」というキャッチもなかなかよく出来ているではないか。

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半券に比べて、なぜかチラシの出来があまり良くない。ヴンダーリッヒの作品が素晴らしいので救われているが、全体の配置とか色の構成が日光の前(いまいち)なのだ。なぜだろう?集客が必要ならチラシのほうに注力すべきなのに、この展覧会では半券のほうがセンスがいい。釣った魚に、さらに餌をやっているようなものだ。不思議だなあ。それとも、それが当時の西武美術館の奥ゆかしさなのだろうか?いずれにせよこの美術館にはずいぶんお世話になった。ありがとうございました。

2007年4月 7日 (土)

中村宏とタイガー立石

先日観た中村宏の「図画事件」に関連して、人生の楽しみ方の達人ともいえる中年とオブジェさんから教わったのだが、中村宏とタイガー立石とは「観光芸術」つながりだという。そういえば世紀末にタイガーの個展を観た記憶があった。「メタモルフォーゼ・タイガー 立石大河亜と迷宮を歩く」(1999年:大崎のO美術館)だ。

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さっそく図録を引っ張りだして見たらあったあった。「観光芸術誕生」のハガキだ。面白くなって図録をもっと見ていたら面白いものを見つけた。「アンデスの汽車」という作品だ。

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あれ?これってどこかで見たような気がするな。

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中村宏「図画事件」に出典されていた「千齣一齣物語」だ。強調された遠近法で描かれた線路の向こうから列車がやって来るというテーマと図柄はそっくりだ。これは間違いなくどちらかが真似したんだろうな。しかしアイデアが似ているといっても、両方とも別の感性をもとに描いており、そのエスプリは別個のものだから許される気がする。

このように作家同志のつながりというか、互いに刺激し合い、連携しながら腕を磨いてゆくという関係は素晴らしいと思う。また切磋琢磨して双方の作品が質的向上を見せれば、申し分ない。そんなことを考えさせられた。

2007年4月 6日 (金)

40年前の「美術手帖」

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このブログですっかりおなじみになった(?)F君から、またまた貴重な物をもらった。「美術手帖」だ。なあんだ、また雑誌か。ちょっと待って、これがただの雑誌じゃないんだよ。1966年10月版だ。ざっと40年前の刊行だ。

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そしてまたすごいのは、先日私が行けなかった「シュルレアリスム展」で一番人気だったという、ヴィクトル・ブローネルが特集で紹介されていたんだ。「誕生の球体」などが図版になっている。作品名は「卵の構成」と書かれているが、細かいところはこの際どうでもいいだろう。

執筆はあの坂崎乙郎。坂崎が幻想絵画について書くんだから、こりゃあ面白いや。期待通り味わい深い文章が書かれていた。きっとF君は私が「シュルレアリスム展」に行けなくて可愛そうだと思って一生懸命古い本を探してくれたんだろう。しかしこんな古い雑誌をよく持っていたな。感心してしまう。F君、たびたびありがとう。

2007年4月 5日 (木)

ねりまの美術2007

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「ねりまの美術2007 油彩画と版画」(練馬区美術館)に行った。一見この展覧会は魅力を損なう三要素を備えているかに見える。すなわち、①個展ではなく何人かのアーティストの総華的な併置でジャンルが種々雑多であり、②巨匠ではなく、といって新人発掘でもない中堅画家ばかりで、③かつ展示作品も代表作ではないので中途半端、といった具合だ。しかし、なかなかどうして、楽しさ・面白さの上では今年の展覧会の上位を狙おうかという程に興味深い企画だった。

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小野木学は10年きざみで作風を変えていった。左は1952年の「習作」。微かにキュビズムの影響を感じさせる人物群像だ。あるいはバロック絵画の異才ルカ・カンビアーソのDNAを継承しているとでも言えようか。そして右はほぼ10年後の「ユニコーン」(1961年)。ギュスターヴ・モローらが描く従順そうなユニコーンと違い、獣性と魔性を併せ持つ荒々しい印象だ。フォーヴィズムとアンフォルメルを混ぜたような感じになっている。

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それがさらに10年経つと「風景」(1972年)のように完全な抽象画に変貌を遂げる。山口長男の抽象画と隣あわせに展示されていたが、どちらも色の種類を少なめにして清楚な感じを出している。これは油彩だ。

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そして版画にするとなぜか風景が英語になる。「Landscape T.L.V.」と「Landscape T.L.J.」はシルクスクリーンにエンボスを施したものだ。曲線主体なので幾何学的な図柄なのに温かみを感じさせる。「習作」から20年でこれだけの変貌を遂げるのだ。

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一方、池田龍雄も作風の転換を見せている。これは1952年に描かれた油彩「十字街」。ピカビアによく似ている。曲線を生かした独特のキュビズムの扱いで、観ていて楽しい。抑制された色調も好感度を高めている。

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これは10年後のリトグラフ「世間」(1962年)。右からいくつもの突起が出ているが、これは世間の冷たいあしらいであろうか。そして左の人物像はその荒波に耐え忍ぶ作者本人の姿なのか。重そうなテーマだがユーモラスに扱っているので救われている。

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それがさらに10年経つと「梵天」シリーズに変容する(1974年頃)。曼荼羅から抜け出たような奇怪な文様が妖しい色彩を施されて対置されている。宗教的であると同時にSF的でもあり、観ていて飽きが来ない。

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菊池伶司という版画家は知らなかった。木口木版画でシュールな味わいを出している。4点展示されていたが、作品名はみな「無題」。作品の内容そのもので勝負という感じだ。さすがにエキサイティングな版画だった。

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木口木版画といえばこの人、柄澤薺の作品も4点展示があった。これは「パンドラの箱」。この前、鎌倉の近代美術館での個展に感動した余韻がまだ冷めていなかったので嬉しかった。

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大好きな画家、野見山暁治の作品もあった。これは「落日」。色彩と形態の調和がよく取れていると思う。

こんなに楽しんで入場料はワンコイン(500円)。図録も500円だから両方で千円だ。これはお値打ちだね。

中村宏小品展

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練馬区立美術館に「油彩画と版画」展を観に行ったら同時に「中村宏小品展」も開催されていたので覗いてみた。つい先日、東京都現代美術館に「図画事件」の最終日に行ったばかりだったので中村作品は記憶に新しい。そして「図画事件」で観た大作の習作であろうと思われる小品が多く展示されていた。これにより、作品の制作過程というか、中村宏の思考の経過を追体験するような楽しみかたができて収穫だった。

「図画事件」に展示されていた「限界表示」(工事現場などで立入禁止を表す黄色と黒の縞模様の木組みをそのまま絵にした作品)の、まさに下絵と思われる作品もあった。1枚の大きい紙に4コマの絵が描かれ、それらは少しずつ形が異なっていた。おそらく様々な形態を描いて試行錯誤し、最善の形を求めていたのだろう。

同様に「車窓」関連の作品の下絵と思われる小品もあった。女子高生の登場する作品もしかり。みんなそれぞれ最終的な大作制作の前に、入念な準備をしているといった感があった。

この小品展は入場無料。「油彩画と版画」展で500円支払えばよい。タイムリーな企画だったので楽しかった。

2007年4月 3日 (火)

F君からもらった雑誌

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これは何でしょう?なんだ、ただの雑誌じゃないか。でも私にとってこれは「プレッシャーグッズ」なんだ。何それ?

最近よく登場してもらうF君がさりげなくくれたんだ。彼は展覧会に行くとチラシ、絵葉書の2点セットをくれることが多いし、機嫌がいい時(?)には図録まで買ってくれることもある。今回は雑誌だ。「へえ、気前がいい友達を持っていいね」と言われるが、同時にプレッシャーもあるんだよ。

タダでもらったからには、何かしなければならない。それも有意義な事をしないと彼の厚意に報いることにならない。これは結構大変だ。この雑誌には私が住む湘南地方のマイナーな美術館などが紹介されている。案の定、足を運んだことがない所ばっかりだ。これはいけない。まずはそのうちの1カ所でも訪ねてそのレポートをジョヴァンニッキに書かなきゃ。というわけで、ますます週末が忙しくなる。

2007年4月 1日 (日)

特集展示「闇の中で in the darkness」

「図画事件」と同時開催の常設展も観た。東京都現代美術館は企画展より常設展のほうが面白い場合がある。というか、時々展示替えがあるにせよ北代省三、浜口陽三、難波田龍起など大好きな作家の作品のどれかには必ず会えるという保険があり、安心して楽しめるのが大きい。

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今回は「1940-80年代の美術 特集展示 闇の中で in the darkness」と称して、暗闇の中に浮かび上がる作品の魅力を、実際に照明を暗くしてみせてもらった。

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土屋公雄の「月のかけら」は一部が陶器の皿を壁一面に円弧状に貼り付け、月の運行に見立てた作品だ。一部が欠けた皿もあり、それらは半月や三日月を表したものだろう。観ていて楽しくなる作品だった。この「見立て」というのは必ずしも日本特有の感性ではないと思うが、古来から日本美術では重要な地位を占めているように思える。しかし「見立絵」というと違う意味になるらしいから話はややこしい。

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あっいけない脱線してしまった。何の話だったっけ?そうだ月に関してだ。大好きな駒井哲郎の「旗と月のある風景」の展示もありご機嫌になれた。駒井作品の中ではは色彩が豊かなほうだ。宮島達男の「Monism/Dualism No.7」の展示もあったし、今回は月が満ちあふれていたな。

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月に関して何か述べようと思っても、科学の分野ではガモフ全集の「月」が圧巻だし、新しくは松岡正剛の「ルナティックス」が「これでもか、これでもか」と月にまつわる話を打ち出しているので、素人の入り込む余地がない。という具合で、「月」と「見立て」という2つのテーマの間で揺れ動いたが、やはり研究テーマは「見立て」にしたほうが、まだ発見の余地が残されているだろうか。これに気がついたのが今回の成果かもしれない。

最終日に行った「図画事件」

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「中村宏|図画事件」(東京都現代美術館)の最終日に駆け込みで観に行った。実は次の3つの理由でもともと好みではないアーティストだったのだ:

1.社会性:ルポタージュ画家として作品に政治的・社会的な要素を含ませる

2.反抽象:具象一本槍で抽象を手がけない

3.グロテスク:一つ目の女子高生などが登場する

ではなぜ観に行ったかというと「嫌いなもの見たさ」とでもいうか、自分の幅を広げるために自分の好みの範囲を超えているものにも目を向けようと思ったからだ。予想通りルポタージュ絵画や女子高生の過激な描写などは感心できなかったが、次の収穫があった。

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1.鉄道ダイヤに基づく作品:抽象画のようなたたずまいで、画面に品があり好感が持てた。  発想もユニークだ。

2.「早稲田祭」のポスター:今見てもインパクトがある。制作当時はさぞ新鮮な感じを与えただろう。学生に支持されたというのがよくわかる。

3.夢野久作の著書の装丁:おどろおどろしい内容を想起させ、なおかつ品性も保つという綱渡り的な仕上がりになっている。

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  こうして中村作品を観てゆくと、私の立場から一つの結論が導き出された。それは、タブローとして観賞しようとすると違和感が先行するが、付随物として位置付けるとしっくり収まるということだ。具体的には、例えば「円環列車」などタブロー作品だと何となくグロテスクで嫌だとなるが、同じような絵が夢野久作の本を飾ると素直に認めたくなる・・・といった具合だ。「早稲田祭」のポスターもしかり、「現代詩手帖」の表紙もしかり、である。

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  では付属物は独立物(こんな言葉あるかどうかわからないが)より地位が低いかというと、私はそうは思わない。一種のコラボレーションと考えればいいのだ。学園祭のポスターは大学のイベントとのコラボだし、本の装丁は文芸とのコラボだ。少々強引だが、ルポタージュ絵画だって「事件とのコラボ」と呼べなくもない。

そしてコラボを成功させるためには相手側について深い理解が必須だ。学園祭は学生が努力した演出・展示内容を暖かく見守り、その真意を理解しておく必要がある。書物は読んだうえで、その魅力のポイントがどこにあるか考える必要がある。ルポタージュは事件についての表面的な知識だけではなく、その背景まで含めての深い洞察が必要となる。そういう準備面を含めて、作者の力量と出来た作品が優れていると評価されるのだと考えるのだ。今回はちょっと理屈っぽくなってしまったな。

 

 

 

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