« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月31日 (土)

行けなかった「時代と美術の多面体」

__113

このところ忙しくて行きたくても行けない展覧会が多い。「時代と美術の多面体」(神奈川県立近代美術館葉山)もその一つだ。とうとう開期が終わってしまった。F君が行っていれば「お土産」(チラシ、絵葉書、時々図録!)をもらえそうだが行った気配がない。残念だがチラシやプレスリリースを眺めて若干でも行った気分に浸ることにした。全体は8つの「章」に分けて構成されている。その中で私が興味あったのは3つだ。

_a

「第5章:都会のモンタージュ」は川辺昌久の作品が面白そうだった。チラシの表に載せられた「作品B」では左上の裸婦がいかにも大正ロマンを代表するような姿をしていて情感がある。幾何学的なコンポジションと情念的なものが不思議とマッチしているようだ。プレスリリースから拾った「作品B」も観たかったな。他に大好きな松本俊介の作品展示もあったとか。ますます残念。

__114 

「第8章:モダニズムの詩と造形」とはいい言葉だ。それだけで大正時代の「前衛美術」が想起される。古賀春江「煙火」の展示が中心だ。2001年に「古賀春江創作の原点」(ブリジストン美術館)に行ったが、この作品は展示されてなかったようだ。これも見逃して残念。

__115 

「第4章:静物―断片という全体」では里見勝蔵「マネキンの静物」が中心だったようだ。専門的には佐伯祐三らの「日本的フォーヴィズム」に分類されているらしいが、少しキュービズムのDNAも入っているように見える。

私は大正アヴァンギャルドから実験工房に至る時代(1920~50年代)に一種の郷愁とともに愛着を感じてしまう。そういう意味もあり、この展覧会をスキップしたのは誠に悔やまれるのだ。

2007年3月27日 (火)

行けなかった「シュルレアリスム展」

__108

「シュルレアリスム展」(埼玉県立近代美術館)は気になっていたが、とうとう開期を終えてしまった。展示作品は知っているものが多かったのでまあいいか、と自分を納得させていた。そんな折、同展を観たF君からフィードバックがきた。チラシ、絵葉書、関連するPR紙などを一式送ってくれたのだ。そのお陰で、足を運んでいないが、半分ぐらいは行った気分にひたることができた。F君ありがとう。

__111

F君の送ってくれた絵葉書はヴィクトル・ブローネルの「誕生の球体」だ。「知らなかっただろ?」という無言のメッセージが込められている。確かに馴染み薄の画家だ。

__112

ただこの画家は私たち幻想好み派にとっての伝道者ともいえる澁澤龍彦の「幻想の画廊から」で紹介されていたから、うっすらと名前だけは知っていたんだ。でもちゃんと作品を観たことがなかったから、絵葉書とはいえ有難かった。

チラシに書かれた出品作家リストを見ると、マグリット等のメジャーどころに混じって、このブローネル等のマイナー作家が名前を連ねている。ヴィフレド・ラム、ピエール・ロワ、ケイ・セイジ、ドロテア・タニング、ラウル・ユバック等だ。こうしたマイナー作家の作品をじっくり観たかったなあ。まあ仕方がないか。

 

 

2007年3月25日 (日)

湘南合奏団第14回定期演奏会

_20070325_

湘南合奏団の第14回定期演奏会にチェロパートのエキストラで出演した。メンバーはみなアマチュアと言えども達人揃いなので少し肩身の狭い思いをしたが、なんとか終わってホッとした。私はオーケストラや弦楽合奏では高校以来あまり弾いていないので、合わせるのに苦労した。他の人より早く飛び出して音を出してしまいそうになるんだ。それはなぜかというと、指揮者のタクトを見て音を出してしまうからだ。実際にはコンサートマスターの弓の動きを見て、そちらに合わせなければいけないと誰かから教えられたが、それでもなかなか調整できずにいた。今回は一生懸命合わせたけど、どうだったかな。

<演奏曲目>

モーツアルト「ディヴェルティメント」ニ長調 K.136

バッハ「管弦楽組曲」第2番ロ短調 BWV.1067

武満徹「三つの映画音楽」

カルウォーヴィチ「弦楽のためのセレナーデ」ハ長調 Op.2

モーツアルトは第2楽章の音程で苦労した。ト長調はチェロにとってやりやすい調性のはずだが、なかなかどうしてこれが難しいんだ。普通に調弦したら開放弦に逃れようとしても、純正律のうえでは合わない。結果として、野球に例えると「ボールを置きにいった」ような弾き方になってしまった。客席にいた妻が後で「ボーイングがせせこましくなっていた」と言ったが、確かにその通りだったようだ。

バッハは独奏フルートの音量に合わせて人数を絞ったため私は降り番。客席の後ろで聴くことができた。フルート奏者は旧来の友人で素人フルート名人会2004「名人賞」を受賞したつわものだ。NHKフルート教室に出演したこともある。アンコールで最後の曲「バディネリ」を直前の演奏よりさらに速く、しかも多めに装飾を入れて吹いたので驚いた。メンバーに聞いたらサプライズだったそうだ。彼と指揮者とで示し合わし、みんなには言わずに演奏を始めたのだ。弦はついていくのが大変だった模様。

現代曲を弾く機会はあまりないので、武満徹に取り組むことができて良かった。第3曲目を除くと、近代的な和声だが、かなり調性感が強いことがわかった。映画音楽なので、無調だとそぐわないからだろう。拍子とテンポが目まぐるしく変わるので、ついてゆくのが大変だった。

カルウォーヴィチという作曲家は知らなかった。ポーランドで1876年生まれというと、シマノフスキ(1882年生まれ)と6つ違いでほぼ同年代だが、作風はかなり保守的のようだ。例えばシマノフスキの弦楽四重奏曲第1Op.37はフィナーレの冒頭に露骨な多調が出現する。露骨というのは、第1ヴァイオリンから順に♯3つ、♯5つ、♭3つ、♯♭無しというように、4つの声部に別々の調号が付けられているからだ。こんなシマノフスキに対してカルウォーヴィチは堂々とハ長調で古典的な構築を見せる。バルトークが「現代でもハ長調で音楽が書ける」と言ったことを地で行っているようだ。

プログラムの最後に演奏者の名前が出ている。パート毎に五十音順に並べているのは公平でいいと思う。そして偶然にもコンサートマスターの名前がちゃんと最初に置かれているんだ。チェロパートも同様、トップの人の名前が先頭に出ている。でも、もし彼等が五十音の後ろのほうの名前の人と交代したらどうなるんだろう・・・と余計な事を考えてしまった。

2007年3月24日 (土)

切手って楽しい その3

_059

これはマレーシアの切手。この動物は獏だろうと漠然と思う。背中には白衣か馬具が乗っているように見える。それを剥ぐと馬が現れたりして、なんて言うと馬が化くなんて馬鹿だと暴露され爆笑されるのがオチだ。

よせばいいのに時代錯誤の作文をすると・・・

爆薬を詰めた爆撃機の爆弾と爆雷が爆発して戦艦を爆破し爆砕し爆沈させそれで爆風が吹きついでに爆竹まで爆音を立て爆心地は莫大な被害を被った・・・。

広辞苑を片っ端から探してゆくとこういう言葉が見つかる。これを井上ひさし方式というんだ(?!)

2007年3月23日 (金)

レボリューションアンサンブル

_058_1

久しぶりにコンサートなるものに行った。「レボリューション・アンサンブル」といって音大生中心のオーケストラだ。なぜ行ったかというと、別宮貞雄作曲の交響曲第3番「春」を演奏するので、別宮氏が妻宛に招待券を送ってくれたから。妻は中学生の頃「子供のための現代ピアノ曲集」で別宮作品のレコーディングを行ったので、その縁で別宮貞雄自作曲の演奏がある場合は招待券をくれるんだ。

「春」は思いっきり古典的なので驚いた。現代作曲家が普通の調性音楽を書くのは勇気がいると思うが、別宮貞雄はその辺の感覚が独特らしい。ベートーヴェンの曲からソナタ形式を学んだ作曲家らしく、第1楽章は主題労作の跡が見えて面白かった。ソ-----ソ(階名読み)という牧歌的な旋律の第1主題をはじめ、3つの主題が奏された。第1,2,3主題と呼ぶのか、それとも2番目は第1主題の副主題というか、まあそんな事はどうでもいいけど、展開部で複数の主題の垂直結合があったのは嬉しかった。私もソナタ形式で曲を作ると、必ずそれをやる。というか、それをやらないと収まらなくなっている。ここまでくるともう病気だね。

第2楽章は弦楽器の伴奏に乗ってフルートなどがゆったりした旋律を響かせた。演奏のことはあまり書かない習慣だが、ユニゾンでの管の音程が悪かったのは残念だ。弱奏なので目立つんだよね。でもどの楽器かわからなかった。途中でシ--ド、ミ--ド(階名読み)という旋律のワルツになり変化を持たせていたし、作曲はまあまあの出来だと思う。

第3楽章はちょっとダサいな。別宮大先生すみません。ソ--------シ(階名読み)という行進曲風の元気いい旋律で始まり、シンコペーションでリズムの変化をつけながら進んでゆく。中間部でソ-ラ、ソ-ラ(階名読み)という波が返すような部分を経て元に戻る。あるいはロンド形式だったかな。フィナーレはどうしても手抜き(失礼!)になりがちなんだよね。でもこれは仕方ないと思う。作曲家というのは大体において第1楽章に打ち込んで精魂尽き果て、それ以降は気力で書くことが多いと思う。別宮先生に限らずどんな作曲家でも、特にフィナーレはただドンチャンやってる曲が多い。ハイドンなんか典型的だよ。

演奏が終わり別宮先生が壇上に上がられたが、前回聴いたコンサートの時と違って、おしゃべりが無かった。ご高齢でさすがにしんどかったのかな。残念だが仕方がない。なお、他にはベートーヴェン作曲で2曲(エグモントと運命)が演奏された。運命の第1楽章でホルンが繰り返し2回ともとちったのはご愛嬌か。最後の挨拶で立ち上がったホルンのトップの人はなかなかイケメンだったよ。(フォローになってないか)。

2007年3月21日 (水)

今日の作家Ⅺ

__103

「今日の作家Ⅺ 鷲見和紀郎・畠山直哉」(神奈川県立近代美術館・鎌倉)に行った。最近「半券の復権」シリーズを書いているが、この半券も忘れた頃に復活させるかもしれない。2名の作家を限られたスペースで品よく並べて紹介しているのは、いい出来だと思う。

__104 

鷲見和紀郎の彫刻は、残念ながら中途半端の印象を受けた。半券とチラシに紹介された作品「EVIDENCE」は、有機的な形態を持つブロンズの彫像の脇に、真っ直ぐな蛍光管を併置したものだ。茶褐色v.s.白、無定形v.s.定型、金属v.s.ガラスという対比を「葛藤」などの意味に置換すると一種の心象風景に見えなくもない。しかし、その有り様が「わざとらしく見える」のだ。

__105 

これに対し、畠山直哉のほうは面白さが勝っていた。会場に入った途端に目に入る大阪球場の中に町並みが置かれた作品はフォトモンタージュだろうか。こういうのは、「わざとらしい」のではなく、「素直に楽しい」と感じられるのだ。その違いは何だと聞かれても困る。主観と言ってしまえばそれまでだが・・・。

また会場奥に設けられたコーナーには「光のマケット」と名付けられた作品群があった。何てことない。多くの窓から灯りが見えるビルの写真を四角い会場の壁にぐるっと並べて展示しただけだ。この作品に対し、私は独自の観賞方法を見つけた。コーナーの中心に立ち、体を回転させながら作品群を見るのだ。すると、1点1点は静止画(写真)だが、それらの中に見える灯りが繋がって、光の帯みたいに見えてきたのだ。それによって一種独特のムードを味わうことができた。

線の悦び・デッサンの魅惑

Photo_60

「今日の作家Ⅺ 鷲見和紀郎・畠山直哉」の半券で入れる「線の悦び・デッサンの魅惑」展(神奈川県立近代美術館鎌倉別館)を観た。収穫は麻生三郎の「人」と題したデッサンの連作だ。人体のクロッキーのようなドローイングにポイントだけ彩色されている。その線、その形、その色・・・が何とも言えない微妙な味わいを出しているのだ。

麻生三郎は、松本俊介「命」の太平洋近代洋画研究会に参加したのだから、良くてあたりまえだとわけの分らない事を考えてしまった。閉館間際だったので止めようかと思ったのだが、行って良かった。

2007年3月19日 (月)

半券の復権 その3

Photo_57

これは1998年に横浜美術館で開催された「ロシア・アヴァンギャルドと舞台芸術」展の半券だ。このデザインで気に入ったのは、絵の部分を左右に思い切り広げた点だ。その分、展覧会の名称が片隅に追いやられてしまった。しかし、文字そのものを視覚的にデザインすることにより、アンバランスさを消し、魅力ある構成に変えているところは見事だと思う。取り上げた絵も楽しげな抽象で心地よい。

この展覧会に行った動機は、抽象絵画の誕生の過程で、構成主義などロシアの果たした役割が非常に大きいと知識では知っていても作品に触れる機会が少なかったことだ。そして今回の展覧会を通じて、おおげさに言えばミッシング・リンクを繋いだほど収穫があった。

例えばこの半券はイワン・クドリャショーフの「オレンブルクの第一ソヴィエト劇場の内装デザイン」だそうだが、1920年の作品である。1910年あたりで未来派やキュビズムが盛んだったが、そのたった10年後の作品である。その時代で完全な抽象作品を発表しているわけだから、先進性を認めてよいのではないかと思う。

2007年3月17日 (土)

シャガールの白黒の銅版画

_057_1

「マルク・シャガールの銅版画-『死せる魂』展-」(町田市立国際版画美術館)に行った。動機は一つ。豊かな色彩に優れるシャガールがモノクロームの世界でどれほどの魅力を出すことができるか、確かめたかったんだ。

その結果、シャガールは大したものだという事を知ることになった。白黒の版画でも、シャガールらしさは充分発揮されている。例えば「ソバケーヴィチの家」という作品があるが、建物が左右に傾いたり、建物と付随物の大きさの比率が不自然だったりしている。それでいて、奇妙なバランスが取れており、描かれた物すべてが動きだしそうな楽しさに溢れている。

ゴーゴリの原作「死せる魂」は詐欺師の活躍するブラックな喜劇だが、シャガールの手にかかると、それが明るい喜劇に昇華してしまう。底抜けに明るいシャガールのキャラクターによってストレスも飛んでしまうようだ。

選抜奨励展

Photo_50

「第26回損保ジャパン美術財団 選抜奨励展」を観た。毎年開催されるシリーズものの展覧会の中で最も面白い企画のうちの一つだ。専門的なことには門外漢の自分が、あたかも審査員になったかのように「あれがいい・これがいい」と評論ごっこができるんだから。また様々なタイプの作品が並ぶのも興味深い。キュービズムやシュール風など自分好みのタイプもあえば、そうでない作品もある。しかし好みから外れたタイプの作品でも「これって結構面白いじゃん」と見直すこともあり、それがまた有意義だ。

Photo_6

私の好みと審査結果とを対比させてみた。「私の評価」ではなく「私の好み」としたのは、私は評価できるだけの素養がないから、好き嫌いの評点にしたからだ。私の上位3点と審査結果の上位4点を並べると、カブっている作品は1点だけだった。あまり同じだと気味悪いし、あまりかけ離れていると自分のセンスを疑うので、この程度の重複度が心地よい。

__97

篠原征子の「ある風景」は最も気に入った作品だ。「叙情性のある構成」という感じだ。キュビズム風のコンポジションが楽しいし、かつ温かみを感じる。作家本人が「ブルーの冷たい印象を、温もりのある魅力的なブルーに・・・」と言っていることがまさに実践されている。コラージュを控えめに活用しているのも好感度を高めている。どこをとっても文句ない作品だ。

Photo_54 Photo_55

青というとまずピカソの青の時代やイヴ・クラインの空のような青を思い出すが、他にもラウル・デュフィーの楽しい青、金山康喜の「青のリリシズム」がある。しかしそれらは単に彩色された青であって、塗りが軽い分、明るさ=温かみを出しやすいのではないか。これに比べて篠原作品はコラージュの上に厚塗りされた青であり、重厚はマチエール感を伴っている。それにもかかわらず温かみを出すというのだから、大変な工夫を強いられたのではないかと思う。

__99

谷貝文恵の「記憶」はその次に好ましく思った作品だ。渋い色で統一しているので気品があり、かつ構成感も味わうことができる。3人の女性が横に並んでいる姿が明らかだが、背景に溶け込み、抽象絵画として眺めることもできる。「私の中に在る日常的リアリズムを表現したい」と作者は言っている。自分自身の中にある日常とは、心象風景という言葉に置き換えられないだろうか。深読みしたくなる作品だ。

__4

木村富秋の「鳥唄(岬)」にも好感を持った。これが審査結果とベクトルが合った唯一の作品だ。抑制の効いた色彩と構成感が心地よい。

_untitled_2

鈴木雅明の「Untitled-Light 2006」は「意図的なピンボケ」の魅力を教えてくれた。独特のムードが醸し出されている。

__100

中谷晃の「卓上の楽園」は審査員から最高の評価を得た作品だが、私は趣味に合わないのであまりコメントできない。マチス風の(いい意味で)平面的構成がポイントなのだろうか?

__101

羽田浩司「羽の舞う日」は見た目グロテスクで好きになれなかった。私はシュールや心象風景は好きだが、このように「直截的に不気味」な作品にはアレルギーがある。強引に例えると、大好きなラブクラフトのホラー小説に気品を感じながら読んでいたのに、映画化されたらたちまちダサくなった、というような感じか。

__102

他にも印象に残る作品があった。「構成派」と勝手に呼んでしまうが、樺島玲子のタピスリー「幻想即興曲」が家の壁に飾ってあったら楽しいだろうな。♪推名久夫「Virtual Moratorium 06」は古めかしい写真のコラージュに郷愁を誘う力をみた。♪♪亀井三千代「蕾」は人体解剖図をベースとしているから不気味さがあるが、色と形の構成として観ると素晴らしいものがある。♪森田陽子「Threshold 90”」は古めかしい装いの中に現代的センスを織り交ぜた傑作だと思う。

「詩情派」もいるぞ。♪荒木恵子の「エピソード(Ⅵ)」は都会的なセンスで雑誌のイラストにぴったりだ。抑制された色づかいもいい。♪川田ゆう子の「A THOUSAND WINDS 千の風になって」は「うつろひ」というものを感じさせる佳作だと思う。単に流行(千の風)に乗った作品では決してないと思う。♪千葉和夫「ルイーナ」は不思議な感じに満ちている。描かれた地面と建物のどこにも超現実的なところが無いにもかかわらず、非現実的な詩情を漂わせている。これらが気になった作品だ。

「クラシック派」というのはどうだろう。♪卜部俊孝「洋酒と兜」は、その描写力に圧倒された。本物そっくりなのでトランプ・ルイユも簡単に描けそうな画家だ。♪加藤良造「山水行」の幽玄な世界は魅力だ。

それに対抗するのが「現代派」だ。♪徳永芳子「祈りの水(嘆きの壁より)-2」は独特の世界を形成しているようだった。♪平野良光「止場Ⅳ」は描写力がすごい。

「情念派」と名付けたくなるような作品に出会った。♪名和聡子「ディープシークレット」は赤い花弁を大きく描いたものだが、どこかジョージア・オキーフに通じるものを感じる。オキーフと異なる点は背景だ。オキーフが外光の明るさをバックに描いているのに対し、名和は背景に暗闇を置いている。黒地に赤い花がぼうっと浮き出る様は、どこかエロティックな衝動を感じさせるものがある。♪堀孝子「遠い記憶-私の庭-」も女の情感がにじみ出るような作品だ。♪友安一成「春潮」はモノクロームで男性の立場から「女の情念」を描き、なかなかの出来だ。この絵を見ながらカラオケで「天城越え」なんか歌われたら大変だろうな。(どういうふうに大変かはご想像にお任せします)。

さらに「SF派」もある。♪三浦かず子「誕生」は宇宙的規模の心象風景とでも呼びたくなるような作品だ。♪吉川幸昭「私のいきたいところ」もSF的なタッチが濃厚だ。色がとてもきれいだ。♪野村晴夫「或る風景《夢中》も宇宙空間に放り出された浮遊感を感じる。色がとても綺麗だった。

Photo_56

「思い出させ派」(何じゃそれ?)というジャンルを強引に作ってみようか。♪「太陽を食らう」の長沢明は、昨年6月銀座のガレリア・グラフィカで個展を観た。独自の形態・色使いを持っている画家のように思えた。♪島袋洋「孵化」で描かれた水に浮かぶ女性は、先日観たビル・ヴィオラの「ミレニアムの五天使」とイメージがダブった。

こんな面白い展覧会が500円で観れるんだから、いいよなあ。

2007年3月13日 (火)

絵葉書の世界 その7

____1

これは何でしょうか?何かの機械みたいだな。あっ間違えた、逆さまだった。でも違和感が無かったな。不思議だ。

___8 

これはピカビアの「愛のパレード」。1917年の制作だ。ロシア革命が勃発した年にフランスではこんなアヴァンギャルドな作品が生み出されていたんだ。ピストン型の機械によって性愛を象徴させるというと、デュシャンの「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」を想い出す。こちらも絵葉書のコレクションにちゃんとあるんだ。

_058 

デュシャンの絵葉書は1980年の夏、竹橋の近代美術館で開催された「ポンポドゥ・センター/20世紀の美術」展で買ったものだ。彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも:東京バージョン」と記されている。東大教養学部の美術博物館所蔵だからそう呼ばれているらしい。両者を比べると、デュシャンのほうが洗練されている感じがする。でもピカビアの直截的表現も捨てがたい味があるなあ。

2007年3月12日 (月)

絵葉書の世界 その6

_055

これは何でしょうか?そう、「イソップ物語」の「オオカミと鶴」だよね。ではこの絵は誰が描いたのでしょうか?

_056 

これを造った人が描いたのです。「イソップ物語」という絵本だよ。なあんだカルダーか。

_057 

これらの絵葉書は、1979年に今は無き西武美術館で開催された「カルダーの世界展」のものだ。カルダー没後3年目の回顧になる。そう言えばカルダーはモビールやステービルだけでなく針金の彫刻も巧みに作っていたけど、この絵はそれを連想させるなあ。そして絵も上手だな。オオカミの喉に入った骨をよく描いていると思う。デッサン力があるから、抽象的なモビールの構成もセンスいいものが造れるんだろうな。

2007年3月11日 (日)

新曲のタイトルの名(迷)案

風邪か花粉症か区別がつかないが、熱っぽく頭痛がする。今月末に本番がある弦楽合奏の練習を休んでしまった。でも自宅で痛い頭を押さえながら確定申告の書類を作っていた。期限が迫っていたので仕方ない。無理矢理やって見直そうとしたが、疲れてヤル気が出ない。そんな時に限ってくだらない事を思い付き、Heavy Moon(重い月=思い付き)を書いてしまう。この非合理さをどうかしたいのだが、どうにもならなくて困っている。

1,2年おきに企画する「半世紀記念コンサート」が終わり、次回はどんな新作を発表しようかと考えていたら、あることを思い付いた。一生に一度やりたいと思っていたことである。それはバッハ作曲「フーガの技法」より未完の四声フーガの補作だ。つまり途切れている箇所から先を作って曲を完成させようという、真摯なバッハ信者からみると神(バッハ)を冒瀆するような行為だ。最後には四つの声部が別々に異なるテーマを奏で、それが垂直にも調和する。たまらないねえ!

そしてその曲に名前を付けるんだ。J.S.バッハ作曲-J.スキアリ補作「フーガの技法より四声の蜜柑(みかん)のフーガ」。いいでしょう!え、良くない?ふざけすぎている?いいじゃないですか。サティだって「梨の形をした3つの小品」を発表してるんだから。スカルラッティにだって「猫のフーガ」があるし・・・。

半券の復権 その2

_054

これは「近代彫刻-オブジェの時代展」(横浜美術館)の半券。A4チラシの表面と内容は同じでレイアウトを若干変化させている。

これは面白い図柄だ。まずは緒川たまきの写真が目に入る。そのポーズは三角形を形成し、何やら造形的だ。その右にベリングの作品が宙に浮き、右からはブランクーシの「空間の鳥」の影とでも言えそうな円弧が倒れかかっている。これら三者の緊張感とバランスがいい。動きと静止が同時に感じ取れるのはなぜだろうか。こんなチラシや半券はいつまでも捨てられないなあ。 

2007年3月10日 (土)

切手って楽しい その2

_053

今回はインドの切手。これは楽しい。1982年の記念切手だから今から四半世紀前のものだけど、ユーモラスであり、造形的であり、色彩が渋く、物語が聞こえてきそうで、申し分ない。

2007年3月 9日 (金)

ニルス・ウド展

_052

「ニルス・ウド展」(かねこ・あーとギャラリー)を観た。これまで断片的にしか観たことがなかったので、今回まとまった数の作品に接することができて良かった。

一見、ゴールズワージーに似ているなと思った。♪どちらも自然に敬意を払い、自然物だけを使う。♪しかしどちらも自然物を人為的に再構成する。この2点が共通点だろう。ゴールズワージーは、制作場所で得た物だけを使用するというインスタレーション性を持っているらしいが、がもしかするとその点も共通かもしれない(未確認)。あるいは♪自然保護という社会的メッセージを含んでいるかもしれない(両者とも未確認)。確認作業を今後の課題としようかな。

ウドの作品の魅力は何だろうか。例えば林檎や木の葉を縦横に並べて構成した作品などは抽象絵画との共通点がある。しかし自然物だけで構成したウドの作品は、眼に優しい。果物、木の葉、木の実などの自然物が持つ色彩、質感などは人間の眼に安らぎを与える。果物を一つ見ても、いくつかを構成して全体として見ても同じである。

それに比べて絵画は絵の具などの人工物を用いるので、眼に攻撃的な要素を含んでいるのではないか。それはどんなに穏やかに彩色された絵画でも、自然物に比べたら安らぎの点で劣るのではないか、と思う。大好きなクレーの絵画を例に取っても、それは同じである。

ただ一つ問題なのは作品が写真で、しかも展示場では照明の具合によっては反射光が強く、本来自然物が持っている眼への優しさが損なわれているという点である。でもそれを解消しようとしたら、ウドについて回り、出来上がった作品を直接見るしか方法がないだろう。これは現実的ではない。まあその辺を意識しつつ、写真作品を楽しむというのが落としどころか。

ギャラリーの人が親切で絵葉書をくれたり、ウドの画集を見せてくれたりしたので充分楽しめた。ありがとうございます。また来ます。(冒頭の写真はもらった絵葉書です。)

2007年3月 3日 (土)

20世紀美術探検 ②マレーヴィチのティーセット

「20世紀美術探検」は続く。今回はマレーヴチとロトチェンコのティーセットを取り上げよう。
__2
マレーヴィチというとまず思い出すのは(今回展示されてはいないが)正方形シリーズだろう。シュプレマティスムの象徴とでもいえる作品群だ。「黒い正方形」だの、「白の上の赤い正方形」だの、いろいろあるが、ここでは「白の中の白」に登場してもらう。なぜかというと、今回の展示作品と同じ色だからだ。
__93
それにしても、マレーヴィチにティーセットがあるとは知らなかった。マレーヴィチのことだから、もしかしてティーカップも正方形なんじゃないかな?と一瞬思ったが、考え過ぎだった。カップはちゃんと丸い。しかしティーポットは多少四角ばった複雑な形態をしており、形と構成に凝ってくれたんだなと安心した。
__94
一方、ロトチェンコの「空間構成 KPS42Ⅳ」は、丸の中に丸、丸、丸・・・。2001年に横浜美術館で開催された「近代彫刻-オブジェの時代展」にも展示されていた。大きさの異なる円環が組み合わされ、完全に幾何学的でありながら詩情漂う傑作だ。
__95
ロトチェンコにもティーセットがある。こちらは当然丸い。描かれた模様は円と正方形を中心とした組み合わせである。ははあマレーヴィチに敬意を表したんだな、というのはジョヴァンニ流の冗談だけど、ひょっとしてそうかもしれないな。この文様はとても美しい。抽象絵画のようだ。しかし実用品として見たらどうであろうか。赤い円の印象が強烈で、疲れてしまうんじゃないかな。その点、マレーヴィチのほうが純白で実用上も落ち着きがあるような気がしてならない。

これらの活動は何となくバウハウスを想わせる。芸術・工芸と生活の結節点だ。例えば、ロトチェンコのティーポットに描かれた絵は、何となくバウハウスで活躍したオスカー・シュレンマーの「三組のバレエ」の衣装と似ているぞ。

案の定、ロトチェンコはカンディンスキーが設立したロシアのインフク(芸術文化研究所)を拠点として活動したそうだ。その努力がこうしてティーセットのような作品に結実しているんだろう。この時代(1920年代前半)はシュールレアリスム宣言などが飛び出したりして、アーティストたちの心意気が高まったんだろうと思う。

 

 

2007年3月 2日 (金)

20世紀美術探検 ①ジッテルの生活アート

20_
やっと「20世紀美術探検」(国立新美術館・乃木坂)に行けた。もっと早く行きたかったんだけど、音楽のほうで忙しくて時間が取れなかったんだ。物を持たないで借りてばっかりいる美術館って大丈夫かなと思った。でも展示点数が多く、楽しめたので良かった。

展示は20世紀アートのトレンドをほぼ順を追ってトレースするように並べられていた。だから流れに乗って追体験というか、教科書をおさらいするような事ができた。その全容を書いても書ききれないし、それはぶ厚い(けど\2,000と安い)図録に任せて、自分にとっての新たな発見に焦点を当てて書いてみることにした。何回かに分けざるを得ないだろうな。
___7
今回取り上げるのは「造ったもの」のみでなく「造りながら生きる」かたちのアートを感じさせてくれたコーナーだ。アンドレア・ジッテルの展示とVTR放映である。
__84
彼女はロサンゼルス郊外の砂漠地帯にユニット式住宅を据え、そこで生活しながらアーティストとしての活動も行った。米国の女流アーティストで砂漠というキーワードを聞けば、すぐ大好きなジョージア・オキーフを思い出す。VTRを観ていると、一部オキーフのイメージがダブって感じた。

日本語で「生活臭がない人」と言うと、洗練されたカッコいい人のことを指すことが多い。しかし彼女の場合はむしろ生活を肯定し、生活そのものを前面に押し出し、生活にアートの感性を活かし、それを記録して披露するアーティストだと思った。
__85
生活環境が苛酷な砂漠では、手早く家を建てたい。そのために彼女はユニット式住宅を考案し、実際に製作する。そのユニットを裏に岩山をひかえた砂漠の一角に据えて生活を始めた。
__86
衣服を作りたい、あるいは朝起きてすぐ服を身に付けたいという生活上のニーズがある。それを満たすためにボタンやファスナーを廃し、ピンで留める布一枚の服を考案するなどがその一例だ。そしてそれが実に美しいんだな。
__89
またユニット式住宅という画一化された空間を、敷物や壁紙などにより、これまた実に楽しい空間に変貌させてしまうんだ。これが「造りながら生きる」極意と言えるだろう。
_raugh_
これは「ロウ(Raugh)の規則」と名付けられたものだ。Raughとは何かと思って辞書を引いても出てこない。ウェブで調べたら彼女の造語だった。「In Raw」という意味だそうで、日本語では「生の」とか「自然のまま」というような意味だ。彼女の考案したユニット住宅に備える家具などのモジュール群だ。 工業規格製品なのに「自然のまま」というのは矛盾しているようだが、規格化←→個性的、加工品←→自然物という相反する概念を、一つ上の次元で統合しようとしているのだろう。ネーミング一つ取っても、彼女のポリシーが見え隠れしていて興味が尽きない。
__83
ある時彼女は友人たちをハイキングに誘う。その際、一つだけルールが定められている。それは、参加者各自がそれぞれの趣向の衣装をまとうというものだ。とはいえ、そこは砂漠地帯で、しかもごつごつした岩山をよじ登ったりするから、オペラ歌手が着るようなドレスというわけにはいかない。ある程度活動的で、しかし見た目にも個性を感じさせる服を着てきなさいというわけだ。友人たちは、その条件に沿うように工夫したんだろう。様々ないでたちでVTRに登場した。
__88
このような彼女のやり方は、生活に「祭り」の要素を取り入れているように見える。別の言葉でいうと「演出」になるだろうか。普通なら単に裏山を歩き回っておしまいというところに一つ味付けを加えることによって、精神の高揚を意図しているのだろう。

またある時は友人のアーティストが訪ねてきて、彼女の居住地の周りに垣根のように立体作品を配置するというインスタレーションを行う。一つ一つはアッサンブラージュというか、ガラクタを集めた抽象彫刻といった感じだ。しかし、こうして家の周りをぐるっと取り巻いてみるとなかなかの景観だ。 このような行為も、多少強引に意味付ければ、「垣根」という生活密着物にアートの息吹を与えたということになるだろう。つまり本来の目的である「近隣との区分け」や「外敵からの防御」から一歩踏み出し、それを芸術の領域にまで引き上げるという意図があるのだろう。
__87
このようにアンドレア・ジッテルの世界を見てゆくと、そこには一本太い軸が通っていると思う。それを一言でいうと「生活そのものをアートにする」というコンセプトになるだろう。大変印象深く、かつ考えさせられるコーナーだった。

2007年3月 1日 (木)

切手って楽しい その1

切手収集を趣味にする人は多いと思う。私も一時期、ハワイの研修機関で働いていた頃、切手を集めていた。世界各国の留学生を世話するという仕事をしていたので役得として様々な切手が手に入った。これから切手も紹介してしまおう。

_051 

これは山火事を見張る「スモーキー・ザ・ベアー」という熊をデザインした切手だ。スモーキーはスコップとバケツを持つと相場が決まっている。なにせ火消し役だからね。子供たちのマスコットになっているようだ。日本でいえば金太郎さんあたりに相当するのだろうか。

当時、私のニックネームは「スモーキー」だったのでこの切手で便りを送ると結構受けた。ちなみに私は全くタバコを吸わないんだよ。生まれてほとんど1本も口にしたことがない。ではなぜスモーキーかという理由は以前書いたかな?忘れた。重複かもしれないけど書いておこう。ファーストネームがスペイン語でタバコを吸うという言葉に似ていたからだよ。

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

最近のトラックバック