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2006年8月20日 (日)

さよならナム・ジュン・パイク展

Photo_6昨日のコンサートは満員御礼のプレッシャーと暑さで文字通り消耗戦だった。それに中華街での打上げで飲んだ紹興酒が追い討ちをかけ、昨晩は爆睡。今日は疲れが残っており相変わらずの暑さだ。しかし前から気になっていたので、熱射病覚悟で「さよならナム・ジュン・パイク展」(ワタリウム美術館)に行った。以前アマチュア写真家Eさんと飲み屋で盛り上がった際、彼女が「これこれこういうビデオアーティストがいるんだけど」と話を始めた。私がすかさず「ナム・ジュン・パイクでしょ?」と言ったら、「よく知ってましたね」と褒めてくれた。嬉しい。と言うか、これだけ狂ったように展覧会通いをしていれば、その道の「巨匠」の名前ぐらいは自然に覚えるもんだよね。でもパイクの名前こそ知っていたが、作品はほとんどというか全く観たことがなかったのだ。これはまずいなと思っていたのが足を運んだ最も大きな動機だ。パイク氏の訃報も新聞で読んでいたから、「さよなら・・・」というコピーにも惹かれた。

もう一つの動機がある。先日原美術館で束芋の個展を観たのがそのきっかけだ。確かに束芋は面白かったが、このてのメディア系アートを面白いと思うなら、その第一人者であるパイクを知らないでいるのも何となく具合がいのではないか、と思ったのだ。束芋の才能を疑うことは全くなく、むしろパイクより優れているんじゃないかとまで思うぐらいだが、この分野で先行して業績をあげた「開拓者」に敬意を表することは大事だと思うのだ。ただ行く前から思っていたことがある。パイクはコンセプチュアルなアーティストだから、先日観た束芋みたいに素直に作品を楽しむのではなく、作品と作品以外のこと(他のアーティストなど)との関連を考えるなどコンセプチュアルな面が強いだろうなということである。この予想はある意味で当たっていたが、ある意味で外れた。

Photo_7 会場の一角にビデオアートを観賞できるコーナーがあった。モニターが4つ設置してあり,ヘッドフォンで音を聴くことができる。そのうちの1つに陣取り観始めてほんの2,3分後に、なんとあの有名作「テレビ・チェロ」の録画に巡り合えたのだ1作品の放映時間が短くて30分、長いと70分を超えるから、お目当ての場面を観るまでの待ち時間は運のよしあしで相当違ってくる。そういう意味でこれは最高にラッキーだった。予想が一部外れたのはこれだ。純粋に作品鑑賞で楽しめた。動画だけでなくその音も良かった。チェロの低音を主体としたその力強い響きは、当時の「旬の現代音楽」を思わせた。

Photo_8 音楽の関係でもう1つ気になる作品があった。同志ヨーゼフ・ボイスを追悼した「ボイスを送る」だ。パイクと高橋アキとの二重奏で演奏したピアノを中心に構成されているそうだ。大好きな高橋アキの名前を見た途端、その作品の前で固まってしまった。制作はボイスの亡くなった1986年、いまから10年前だ。私が高橋アキの演奏を聴いて素晴らしいと思ったのは1970年代だ。しかしそれ以来作曲することに興味が移り、コンサートというものにあまり行かなくなったのでほとんど聴いていなかった。継続して高橋を追いかけていれば、パイクとのデュエットに遭遇できたかもしれない。惜しいことをしたものだ。

音楽の話が出たついでにもう一つ。パイクはバルトークの音楽を聴いて東洋的なものを感じ取ったということだ。こうした意識が「ユーラシアン・ウェイ」などの無国籍風の作品に注がれているのだろう。さらに音楽つながりの話がある。「ケージの森/森の啓示」だ。これは「けーじ(けいじ)」という言葉の遊びになっている。しかし原題は英語で「Forest of Cage/Revelation of Forest」であり遊びは見られない。あくまで日本語訳における遊戯なのだ。これは同音異義語が多い日本語ならではの特徴を生かした粋なはからいだと思う。翻訳者がよいセンスを持っていたのだろう。拍手。

ワタリウム美術館の地下の書店に降りると、すぐ左手に大きな本が書見台に開いて載せられていた。でっかい本だなと思って中味を見たら、なんと「ANFY WARHOL GIANT SIZE」ではないか。アートも食も旅も仕事も、みなアートにしてしまう粋な若者maxさんが衝動買いしたという逸品だ。ページをめくると、確かに楽しい。列車の切符を紙にただ並べて貼っただけでアートになってしまう。ウォーホルは構成の美に独特の感性を持っていたんだな。だからマリリン・モンローの写真を並べただけの作品でも、不思議な魅力が醸し出されるのだろう。でもmaxさんには負けた。これはやっぱり高いから買えないや。

2006年8月13日 (日)

ポップアート1960's-2000's

Photo_9ポップアート1960’s2000’s」(損保ジャパン東郷青児美術館)に行った。この分野にはあまり関心がなかったが、逆にこの辺でトレンドをおさらいしておきたいなと思ったのだ。年代順にポップアートの発展過程を追体験する形で展覧会が構成されていたので、わかり易くてよかった。抽象表現主義の作品もポップアートの範疇に入るものとして取り上げられており、好みのタイプの作品にも出会うことができた。

Photo_10 そういう意味でフランク・ステラの「ダブル・グレイ・スクランブル」に出会えたのは嬉かった。一見ポップアートとはほど遠いが、分類の厳密性はあまり問わなくていいと思う。正方形のアートと言えば、極端に走ったのがマレーヴィッチの黒く塗った作で、その他ジェセフ・アルバースなどを思い出す。それらの中でステラのこの作品は奇をてらわず、知的で色彩的にも豊かで、静かだけど動きがあるなど良い点だらけだ。そう言えばステラの作品は観ているようであまり観ていない。個展が開催されたことはあっただろうか?

Photo_11 同じく抽象画ではソル・ルウィットの「四隅からの弧形」も良かった。渋い作品だなと思ってキャプションをよく読んだら木版だった。へえソル・ルウィットは木版なんか使ってたんだ。知らなかった。感じのいい作品なので買えるものなら家に飾りたい。(冗談ですよ)ミニマルアートの推進者にしては作品が古典っぽいのはなぜだろう?またコンセプチュアルアートの一派に属している割には理屈がないようだ。これも疑問。まあこのような不可思議なアーティストがいてくれる方が面白いな。

Photo_12 ケヴィン・アペルの「ハウス・ローテーション・ブルー」には特別の想いを寄せたい。これを観たらパウル・クレー命の「空間の中で構成されないもの」を思い出したからだ。宙に浮く半透明の直方体が組み合わさった構成は本当に魅力的だ。クレーは純粋抽象の趣でありながら隅に人体を配置するなど具象との接点を保って冷たさを救っている。これに対してアペルは見たとおりの箱だけの構成だ。それでも冷たさがないのは、家屋などの構造を母体としているからだろう。

こうしてみると、やはり自分の好きな分野(抽象構成)に目がいってしまうな。今回の主要テーマであるポップアートの本来の作品にも目を転じなければ。

Photo_13 というわけでデイヴィッド・サーレの「鏡(赤)」に注目した。どこかで見た記憶があると思ったら、19989月に外苑前の伊藤忠ギャラリーで開催された個展で同じ作品を観ていた。しかも同じ作品が小冊子の表紙に使われていたのだ。この作品は同年制作された「できたてのほやほや」だったのだ。さらにサーレ本人もギャラリーに来場していてトークがあり、来場者の質問にも答えるコーナーまで用意されていた。今考えると、ずいぶん充実してサービスに富んだ個展だったんだな。サーレはスティーブン・セガール似のイケメンだった。そのあたりもアーティストとしてのマーケティングに効を奏しているんだろうな。うらやましい。

Photo_14 その他の感想として、ピーター・ハリーの「ジョイ・ポップ」はけばけばしい色調が目についたが構成が良かった。ドナルド・ジャッドは「箱」以外の作品を初めて見ることができて良かった。ジム・ダインのハートは洒落ているな。そういえば以前ハートのデザインのグリーティングカードを買った。まだ持っていると思う。マリーナ・カポスは個性と存在感を感じさせる。どこにでもありそうで、ユニークだ。

2006年8月 6日 (日)

「ヨロヨロン」束芋

__14 原美術館の「『ヨロヨロン』束芋」を観に行った。トップランナーで紹介されたので若者が押し寄せると読み、比較的空いているであろう午前中を選んだ。読みは的中し、昼前だというのにもう混みあっていた。大画面の展示室は列ができ1回待ちだったし、小画面の展示も少し待たないと観ることができなかった。美大でビリから一念発起し旬のアーティストに昇りつめたのがカッコいいのだろう。それを広く知らしめるテレビの力恐るべし、というわけか。

__15 実際に作品を鑑賞してみたら確かに面白かった。それも理屈抜きで楽しめる内容だ。随所にブラックユーモアが散りばめられているが、それらが難しい講釈を必要とせずにストレートに受け止められるのが嬉しい。一見「日常の中に潜む恐怖」などのお決まりのせりふが出てきそうな作品が多い。しかし、それらはむしろ「異世界から日常に持ち込まれた恐怖」という方が正確だと思う。あるいは「日常生活における無関心の恐怖」と言い換えられるかもしれない。スクリーン(あるいは壁)を台形状に三面に配置し、遠近法の透視図法のようなセッティングで映写されるアニメーション作品は臨場感を伴い迫力がある。「日本の台所」、「公衆便女」は大画面で楽しめた。「日本の横断歩道」、「日本の通勤快速」、「ユメ・ニッキ・ニッポン」、「湯屋(男湯)」、「お化け屋敷」は小画面で残念だったが、ほぼ全て観終わり、束芋作品の全貌を知ることができて良かった。

Photo_15 ところで遠近法というと思い出す本がある。「美・混迷と創造-日本画の冒険者たち」(吉村貞司著・六興出版)だ。同書には「西洋遠近法では地平線上の一点を頂点として、画家に向かって拡がっている四角錐を、垂直に切り落とした、その切断面が画面になる。従って遠近法空間は、四角錐の内部だけで成立する。」と書いてある。

続いて「外部にあるものは、画面に取り込むことができない」と、西洋遠近法の欠点ともいえる特徴を指摘している。さらに「言葉を変えたら、四角錐の横幅を超えて、横に拡がることもできないし、また縦幅を超えて上下に拡がることもできない。つまり遠近法の能力は奥行の描写力に限られるのであって無限の水平の拡がり、あるいは無限の高さ、深さの表現に無力であることが理解できよう。」と追い討ちをかけている。

これに続いて日本画の西洋画に対する優位点なるものを打ち出している。引用すると「近代日本画は西洋遠近法の水平を超えて、無限の拡がりを完成した。」というわけだ。同書は1976年初版発行である。当時は李禹煥などのもの派(コンセプチュアル・アートの一派)をはじめ、アングラ、スーパー・リアリズム(上田薫)など西洋美術に色濃く影響されたアーティストが幅をきかせていた時期であり、著者としても日本画の復権を願うあまり日本画の優位性という点を「むきになって」追い求めたのであろう。

束芋の三画面を用いた作品群は、上記の「西洋遠近法の空間的閉塞性」にあえて舞い戻っている点で興味深い。一方、展示作品を仔細に観ると、伝統的な日本美術からの引用が目につく。例えば「日本の横断歩道」では、横断歩道の縞模様が浮世絵の波表現に置き換えられている。そのような表現が(「日本の・・・」)と呼応して「私の作品は日本的ですよ」と自らのDNAを表明しているのだ。それにもかかわらず、その構成は、逆に「閉塞感」を伴う西洋遠近法を採用しているという矛盾が、一種の「眩暈(めまい)」を呼び起こすことになるのかもしれない

展示作品の中には、もともとこの「閉塞性」を感じさせるセッティングとなっているものが多い。台所、便所、電車、銭湯などがそうだ。その閉鎖空間の中で起こる「事件」は、しかし外部世界ともつながりを保っている。例えば「日本の台所」では他室で起きる飛び降り自殺、「公衆便女」に放たれる盗撮の蛾、「通勤快速」ににぎり寿司を置く板さん、「日本の湯屋(男湯)」に乱入(?)する警察官などである。こう見てゆくと、束芋はこの「わざと設定した閉鎖空間」に「外界」を関連させて強調するという、戦術を用いているのかと思われてくる。

いや、そう考えたほうが話が早い。つまりまず舞台設定により観賞者はこの閉鎖空間の中に取り込まれる。多少の不安を抱えながら画面に映る作品に引き込まれてゆく。そのうち内容の面白さとあいまってこの閉鎖空間に馴染んでくると、こんどは逆に外界からの乱入者により覚醒させられる。そこに新鮮な驚きと愉しみを味わう・・・、この連続というわけだ。束芋はこの辺の事情を計算したのであろうか。したたかな戦略だ。

以上と異なるタイプの作品も楽しめた。寸評は次のとおりだ。

人間の指と昆虫が合体したシュールなドローイングはその達者さに驚いた。この技術で美大ビリとは、美大はみな優秀なんだなと思う。

「真夜中の海」の不気味さは、モノクローム作品だけに一層強調されていたようだ。1階の展示室では覗き穴から、2階の展示室では上から見下ろすという設定(同一作品を複数個所から観賞できるように配置する)は面白いアイデアだと思った。

裸の男性の背中に施された刺青の花弁がひらひらと落ちてゆき、最後にはその男性の体も崩壊するという作品もアイデアに富んでいて良かった。途中、鯉が泳ぎまわったり烏が飛来したりと、随所に挿入された侠雑物もよく工夫されていた。

これが旬のアーティストの作品なのかと納得し、楽しんだだけでなく併設の「カフェ・ダール」でパスタとワインまで楽しんでしまった。充実してよい日だった。

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