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2006年7月31日 (月)

BAU HAUS 1923

_20060731ミサワ バウハウス コレクション」(高井戸)で開催していた「BAU HAUS 1923」に行った。今日が最終日だ。なぜ行ったかという理由は、あまり褒められない内容だ。勤務先では合計4日の夏季休暇がある。これを連続して取得してもいいし、バラバラに取ってもよい。私は「分割夏休み」を取ることにして、今日がその1日目だったのだ。しかし休んでみてしまったと思った。なぜなら月曜日は殆どの展覧会が休日だからだ。失敗したなあ。金曜日にすればよかった、と思っても後の祭。そこで「月曜日でもやっている展覧会はないかな?」とWebで探したのだ。そうしたらこの催しが見つかったというわけ。我が家から高井戸は遠いが、たまたま大田区に用事があったので、そこから足を延ばせば大したことはないだろうと思って出かけた。

現地に着いたらガラスの扉ががっしりと閉まっていて、横に内線電話がある。指定の番号を回すと、「予約の方ですか?」と聞かれてドギマギした。ここは予約制だったのだ。午前中は貸切だったそうだが、午後は偶然空いていたのでなんとか通してもらった。助かったなあ。ギャラリーの人に感謝。

会場に入ると、何やら怪しげな音楽が聴こえてきたのでそちらの方を見て驚いた。な、なんと一度観てみたかったオスカー・シュレンマーの「三組のバレエ」ではないか。そのまま椅子にどかっと腰を下ろし、しばしスクリーンに見入っていた。いやあこれだけでも来たかいがあったなあ。以前から図版で衣装は見ていた。そしてあんなにふっくらした衣装だとダンサーが満足に踊れないのではないかと心配していた。今回初めて観ると、予想通りダンサーの動きは緩慢だった。その代わり、身にまとった幾何学的図形の衣装を様々な角度から見て、その形態と色の変化を楽しむことができるのだ。この「仕掛け」は面白いと思った。だからこそ、シュレンマーの作品は未だに色あせることなく存続しているのだろう。

他の展示は質・量ともに優れているとは思わなかったが、壁づたいに写真入りバウハウス年表を繰り広げるなど、バウハウス好きにとって嬉しい展示方法を採っている。次に入った「第2展示室」は図書館のようだった。蔵書が造り付けの本棚にぎっしり並んでいる。そこに「日本の抽象画」という10年ぐらい前の展覧会カタログがあり、思わず手に取ってしまった。バウハウス、デザインなどの本が豊富に置いてあるので、その分野の研究をしたい時にまた来ようかな。

2006年7月23日 (日)

エドゥアルド・チリーダ展

__21スペインの生んだ20世紀彫刻の情熱 エドゥアルド・チリーダ」(神奈川県立近代美術館)に行った。抽象彫刻が大好きだが、ここしばらく平面作品を観る機会が続いたので、久しぶりに彫刻に会いたくなったのだ。チリーダの作品を観て次の点を感じ取った。1.鉄の作品は大きい方が良い。2.素材の個性を良く活かしている。3デッサンが素晴らしい。

上記1.の「鉄の作品は大きい方が良い」は私の主義主張に反する意見なので自己矛盾を感じるが、あえて打ち出した。今回の展示物はさほど大きくないものばかりであった。この理由は明白で、巨大な作品は輸送が困難だからである。それを補うため、パネルの写真などで巨大彫刻が紹介されていた。展示会場にはその縮小レプリカというか、小型版の作品が展示されていた。これらは相似形であるが、私はパネルで見る巨大作品(バーチャル)のほうが目の前にある小型版の作品(本物)より味わいが深いと感じた。私は形状とか構成そのものを重んじるので、相似形であればサイズは問わないという主義であるが、今度ばかりは自分の主義を曲げなければならなくなった。チリーダ作品は、どうも大きいほうが似合うのである。(チラシの写真<風の櫛>がその例。)

上記2.の「素材の個性を良く活かしている」は論より証拠だ。様々な素材で造られた作品を並べてみると、その個性が素材の個性と一体になっていることが感じ取れる。

__17 「空間の転調」は鉄の作品だ。「転調」と音楽の名前が付けられているのがいいなあ。最初考えすぎて、これはアルファベットの文字(音名で用いるA,B,C,D,E,F,G,Hの一つ)がねじれてゆくに従い他の文字(音名)に変化してゆく、つまり転調してゆくという構成になっていると思ったのだ。でもひねって考えすぎたらしい。

_g85_1 「土」は文字通りテラコッタの作品だ。表面に深く刻まれた線刻はキリストの磔刑であろうか?単純な線ながら実に見事に描いている。土という素材とのマッチングもぴったりだ。またその色も素朴な味わいを深めている。そう考えると、この磔刑図はシリアスなものではなく、民話調にやわらかくモディファイされているのであろう。

__19 「異端の建築」は、やはり名称がいい。素材は大理石であろう。「異端」にはちょっと心騒

がされるものがある。「ダヴィンチ・コード」ではないが、宗教的弾圧のにおいがする。しかしここでは宗教的あるいはシュール的な内容はどちらも顔を出さず、純粋造形の作品として成り立っている。あいまいさを寄せ付けない幾何学的な形態と、すべすべした触感の大理石とがよくマッチしている。

「重力」は面白い作品だ。素材は紙。その軽い紙が重ねられ、上から紐で吊り下げられている。「紙のように軽いものにも重力は宿る」などと格好つけたくなる。

__20 上記3.の「デッサンが素晴らしい」は実際に間近に作品を観ると感じられる。例えば「人物」は一人の人物が片膝を立てたような格好でいるところをデッサンしたものらしいが、首から上を描いていないにもかかわらず、人物であるとわかるだけでなく全体バランスも良い。ずっしりと安定していると同時に少し傾いている分だけ動きも感じられる。線そのものも味があって好ましい。

帰り際に美術館に隣接した池を見に行くと、階段下の三角形状の空間に李禹煥(リ・ウファン)の「項」という作品を見つけた。これまで何回も行った場所なのに気がつかなかったのは、階段下に置かれていたからだろう。これでは作品がかわいそうだと思った。李禹煥の作品はコンサプチュアルである分、作品そのものに加え周囲の空間も重要だ。階段下だと作品の真上の空間が制限され、せせこましい感じになっている。もっと広い空間に開放してやりたい。

帰路、小町通りの途中にある杉養蜂園に立ち寄り210円のはちみつ入りソフトクリームを求めた。疲れたので体が甘い物を要求していたのだろう。それともチリーダの鉄や李禹煥の石を観すぎたので柔らかい物に自然と反応したのだろうか。充実した日だった。

2006年7月16日 (日)

吉原治良展

「生誕100年記念 吉原治良展」(東京国立近代美術館)に行った。吉原治良と言えばまず「円」、そして「具体」という連想ゲームが成り立つが、キャッチフレーズもずばり「誰にでも描けそうで彼にしか描けない円」ときた。そのため、ますます「吉原治良=円」が固定観意念化されたかに見えたが、そこはさすがに近代美術館の優秀なスタッフ陣。そんな単純な構図では終わらせない。初期から晩年までの作風の変遷を丁寧に辿り、「円」だけでない吉原を見せてくれた。また「具体美術協会のリーダー」という側面を極力覆い隠し、あくまで芸術家個人の吉原を掘り下げた内容だった。これは充実した企画だ。今年の良かった展覧会の上位入選間違えなしだ。

昨日のブログで「もともと人真似が嫌い」と書いた。すると早速その翌日である今日、吉原次郎も「他人の真似をするな」と日頃から念じていたことを知りその偶然に驚いた。もっとも吉原と私ではレベルというか住んでいる世界が<月とすっぽん>ほど違うが・・・。吉原はあのレオノール・フジタに絵を見てもらった時、即座に人真似はいけないと酷評されたのがスローガンのきっかけだったそうだ。しかも吉原は、絵は独学だという。これも<月とすっぽん>を許していただければ私の作曲と同じだ。嬉しいな。吉原治良がすっかり気に行ってしまった。

今回の展覧会でさらに嬉しかったのは、私の好むシュール、幻想、心象風景、構成的な抽象などの分野を網羅していたことだ。言い換えれば、吉原治良一人のワンマンショーで私の好みのテーマに基づくメドレーを見せてくれたことになる。こんな展覧会に巡り合ったのは珍しい。というか、過去に一度もなかったのではないか。例えばクレー命の場合は、幻想と構成的な抽象こそふんだんに盛り込んでもらえる一方、シュール、心象風景などは全滅である。マグリットあたりはシュール、幻想、心象風景などを満たしてくれるが構成的な抽象に弱い・・・という感じだ。

三連休の中日で仕事の疲れも取れていたので、時間をかけてじっくり見た結果、様々な「サブテーマ」に行き当たった。それらはみな「小さな発見」とでも言えそうな、ちょっといい気分になれる瞬間だった。そういう喜びをもたらしてくれる展覧会は本当に貴重だ。それらのサブテーマを一つ一つ具体的に考えてみよう。

__41__42 ♪様式化の探求による萎縮:「水族館」と「スイゾクカン」の相違

「水族館」(図左)と名付けられた作品が3点展示されていた。形態、色彩など申し分なく楽しめる絵だ。するとその傍に「スイゾクカン」(図右)と称された絵本の下絵があった。ロシア絵本を80冊以上購入して研究した成果だそうだ。なるほど、きわめて洗練された様式美がそこにあった。しかし、この普通の絵である「水族館」と洗練された「スイゾクカン」を比較した場合、私にはどうも普通の絵のほうが好ましく見えてくるのだ。これはなぜだろう?私は、様式美を探究した結果「スイゾクカン」は絵筆が小さく萎縮してしまったように感じるのだ。絵本の「スイゾクカン」はバランスの取れた静寂の美を味わえるが、活き活きとした感じに欠ける。それに比べると、普通の絵の「水族館」は伸び伸びと描かれている分、活き活き度が高いというわけだ。と、わけもわからずいい加減な仮説を書いてしまったが、実際は両者とも非常に優れた作品群だと思う。上記はそれらの差をちょっと強調して書いただけだよ。許してね。

__33 ♪人面山現る?:「山の風景」に埋め込まれた人の顔

「山の風景」という作品は、見るからに何かありそうな妖しさを漂わせている。自然の山を描いているのだが、全体の構成が少々奇妙なオーラを発しているのだ。何かがおかしいとじっと見ていたら、なんと山のてっぺんに人の顔があるではないか。パっと見ただけでは見落としてしまうが、凝視するとその人面が浮き出て見えてくる。これは不気味だ。この手の趣味はマニエリスム絵画に遡れば多くの例があるが、この作品は色調が明るい中にトリックが仕組まれたことが特徴だと思う。一見、のどかな風景のたたずまいなので「いかにも」感が無いのだ。これも吉原治良の一つの側面だろうか。

__34 ♪クレーかミロか?:洒脱な「魚の骨」

「魚の骨」という小品があった。絵画というよりドゥローイングとか、デッサンに近い。細い線で描いた形に軽く彩色を施し、周囲に大きく余白を残してある。この軽妙洒脱な作品は、小品ながら存在感を持っていた。クレーやミロという雰囲気を醸し出している。吉原治良全作品の中でも異彩を放つものではないか。

__35 ♪サイズ無視の世界:「犬と花」にみる構成された心象世界

「犬と花」は奇妙な作品だ。描かれたもの(犬、花、家、蝶、雲、空・・・)はすべて現実世界のものと同じ形をしているが、それらが大きさの比率を無視して組み合わされているのである。例えば犬を基準にした場合、花びらは犬の頭と同じくらいに巨大化しており、逆に家は後方に置かれた遠近法処置を考慮してもなお小さすぎる。そしてそれらが寄せ集められコンポジションをなしているのである。これは明らかに人為的な構成であり、その結果として一種の心象風景となっている。興味が尽きない作品だ。

__36 ♪さりげない超現実:「朝顔と旗」のシュールな出会い

「朝顔と旗」も不思議な作品だ。海岸にポールが建てられ、旗が3つ風になびいている。波打ち際には何やら円錐形の鉄製の大きい物体が斜めに置かれている。その上には布とも紙ともつかない四角いものが2つ宙に浮いている。そういえばその隣の朝顔の花も支えるものなく宙に浮いていることに気が付いた。そしてそれらすべてが画面に見事に構成されているのである。色は明るいから昼間だろう。しかしポールの影がくっきり長く伸びているから、正午ではなく夕方なのか?それにしては明るすぎる。その意味ではマグリット的な光の倒錯世界のようだ。さりげなく描かれてはいるが、その背後に怖ろしいほどの情念が隠されていそうな心象風景だ。

__37 ♪実験工房との接点?:放射線状の細線が北代省三作品に類似

「作品」という名前の作品のことだけど、同じ名前の作品が他にいくつも展示されているのでややこしい。「自転車のスポークのように放射線状に配置された細線を含む抽象構成の作品」と、ちょっと長いけど補足してみた。それで、この作品は「実験工房」の勇者・北代省三の絵画作品と似てるんだよね。吉原治良が率いた「具体美術協会」は北代らの「実験工房」より時代的には少し後になるから、もしかしたら吉原が北代作品を真似したんじゃないか?・・・と失礼なことは口が裂けても言ってはいけないな。だって吉原は「絶対に人の真似はしない」というスローガンを掲げていたんだから。以上の内容はジョークです。誤解なきよう。

__38 ♪ねじれた遠近法:「潮干狩」に見られる複数の視点

「潮干狩」も心騒がされる作品だ。一見、多くの人が潮干狩を楽しんでいる風景に見える。しかしどこかおかしい。干潟がとても広く見えるのだ。するとこの絵は画面の下の方で区切られ、その上下で視点が異なることがわかった。区切り線の下は左下に置かれた大きな人物の目線と画家の目線がほぼ同じ高さにある。しかし区切り線の上はずっと上(空)から見下ろすような目線の角度が付けられているのである。そのため広い区域が見渡せるようになったのだ。同様の手法は、古くは源氏物語絵巻などでも使われているらしいが、この絵では表現に豊かさをもたらしている。

__39 ♪窓枠は十字架を暗示?:「二人」の解釈

「二人」という作品は、窓際に二人の女性が並んでいるとことを屋外から描いた形になっている。窓枠の左側は縦に赤いストライプが通り、左半分にいる女性は微笑を浮かべている。これに対して右半分は木枠が十字にわたされており、女性が十字架に覆われた格好になっている。しかもその女性の腹部は黒く塗られている。これは何かを暗示しているのだろうか?つまり右側の女性にこれから起こるであろう不幸を予見でもしているのだろうか?真偽のほどはわからないが、何となくそんな雰囲気を漂わせている作品なのだ。

__40 ♪平和のシンボル?「薪を担ぐ人1,2」などに見られる木の葉の意味は?

「薪を担ぐ人1」および「薪を担ぐ人2」には心象風景系のたたずまいの中に写実的に描かれた木の葉が1枚置かれている。これらの作品は茶系一色(セピア調)で統一され、唯一この木の葉だけが緑色に彩色されているのである。

これらの作品は1944年に制作された。つまり終戦間際である。その時代背景を踏まえて考え、この木の葉は辛い戦争が早く終結し、平和が来ないかという祈念のシンボルではないかと解釈してみた。普通は鳩が平和のシンボルとされるが、多くの場合その鳩はくちばしに葉をくわえているようだ。従って、これらの絵は平和のシンボルである鳩を意識し、形態上では鳩を消し、木の葉だけを残してシンボル所在を暗示したのではないか、と考えたのだ。もしかすると、反戦運動の取り締まりを逃れるために、意図的にわからなくしたとも考えられる。

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