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2006年5月14日 (日)

茂原淳 作陶展Ⅳ・飾る

___5 友人の陶芸家・茂原淳の個展に行った。毎回高校1年のクラスメートが応援に駆けつけ、何かしら作品を購入し、最後には打ち上げを行う。ジョヴァンニは全出席で、なおかつ毎回作品を購入したので最優秀賞だよ。

茅ヶ崎の「ギャラリースース俊」を根城にして個展シリーズが4回続いたんだ。毎回異なるテーマを掲げ、そのテーマにちなんだ作品が展示されるのが面白い。その間に1回、Bunkamuraでの個展も開催されたんだよ。この5回の個展をまとめてみた。定期的に毎年1回プラスアルファの開催だから大したものだ。作品を準備するのも大変だろう。

200305 ギャラリースペース俊「作陶展Ⅰ・そそぐ」ポット 購入

200405 ギャラリースペース俊「作陶展Ⅱ・盛る」  鉢購入

200505 ギャラリースペース俊「作陶展Ⅲ・呑む」  ゴブレット購入

200601 東急百貨店本店    「作陶展」      購入

200605 ギャラリースペース俊「作陶展Ⅳ・飾る」  一輪挿 購入

毎回楽しい展示を観せてくれるが、今回は特に様々な形態の作品が並んでおり、華やかさを増していた。同じ一輪挿でも、すっきり伸びた形、くねくね曲がった形などいろいろだ。中にひときわ大きなオブジェが二対あり、「楼蘭Ⅰ、Ⅱ」という名前が付いていた。玄関先に置くといいなと思ったが、お値段もよくて残念ながら購入には至らなかった。ジョヴァンニはサラリーマンなので、あまりゼロが並ぶ作品は買えないのだ。茂原君ごめんね。

私が今回購入した一輪挿は「すらすら・大」という作品名だった。全体が鉛筆を直立させたような形状なのでそう名付けたそうだ。今回はネーミングも興味深いな。4つ同じような作品があって迷ったのだが、安定が良さそうで形が面白いのを選んだ。妻がコンサートで花束を貰ったりしたとき、その中から綺麗な花を選んで挿してみたい。

茂原淳の個展を支えるギャラリーMのMさんがいつもと同様、ギャラリーにおられた。既にシリーズ化しているギャラリースペース俊だけでなく、東急百貨店本店での個展までアレンジした実力者だ。最近は陶芸教室も手がけ、マルチな活躍をされている。Mさん自らは染色を専門に修めたそうで、その裏づけがあるからアーティストの支援もできるのだろう。

またクラスメートの一人で植物画家の松本千鶴さんも駆けつけてくれた。自作の絵を刷り込んだ絵葉書を記念にもらう。最近、イギリスに行き植物画スポットと画集が売られている古本屋巡りをされた。その「戦利品」も自宅を訪ねて見せてもらったが、すごいコレクションだよ。

この個展がきっかけであることを考えた。私のような「素人」と、自分でろくろを操作するぐらいの「通」は観賞者としてどこが違うのだろうかと。多分に言い訳がましいが、私は制作の過程がわからず、完成品としての作品をそのまま観るだけだから、色、形が面白いとか、肌ざわりが心地よいとか、そういう直接的な感じ方をする。これに対して「通」は「薄いのによく割れずに焼いたな」とか、「上薬の塗り方が丁寧だな」とか、そういう制作のプロセスを読み、それを含めて観賞するのではないかと想像した。

素人の肩を持てば「素直に作品と向き合うことができる」ということになろうが、逆に「観賞の深さがまだ足りない」ということにもなるだろう。私は素人としての素直な眼を忘れないようにしつつ、もっと深いところを感じ取るだけの素養を身に付けたいなと思った。

同ギャラリーの2階では「巻子(かんす)を楽しむ 絵巻再発見」という企画展をやっていた。源氏物語絵巻の原寸大のレプリカがあった。驚いたのはその大きさである。こんなに小さかったのか。その中に絵と文字と飾りの金箔がひしめき合っている。鳥獣戯画も原寸大レプリカがあった。うさぎや蛙が活躍する有名な部分もあったが、珍しいのは戯画というより写生として描かれた部分も展示されていた。牛が喧嘩したり、子牛が母親のおっぱいを飲んでいたり、動物の生態を活写した部分だ。これも面白かった。

現代作家の巻物もあった。印象に残ったのは内山徹の「波の印象」だ。絵巻物の体裁で作られているが、抽象画である。どのようなマチエールを用いたのかわからなかったが、波しぶきのように表面がキラキラ光っていた。抽象だが右から左に眼を転じてゆくと、不思議な魅力を感じる。なんだか巻物に吸い寄せられてゆくような感じだ。全一巻で60万円なり。うーむ買えないな。いっぺんに夢から醒めてしまったぞ。他に池田美弥子の作品も好印象を残した。

この他に速水御舟の絵巻物形式による「書簡」が展示されていた。これは内容を読むことができて面白い。文字はちょっと見にはあまり上手だと思えないが、絵と共に見てゆくうちに味わい深さが感じられて良かった。なお文章と絵の感じが、僅かではあるが岸田劉生の日記に似ていた。なぜだろう?

夜7時になりギャラリーが閉店するので、こんどは別のお楽しみに向かう。「鉄板焼き・茅ヶ崎」は初めて入ったが、綺麗で上品でなかなかの店だった。生ビールで乾杯の後、赤ワインが進んで進んで・・・。あーあ明日は月曜日なのに。

2006年5月10日 (水)

青梅もアンコール

「ほろ酔いコンサート」を企画してくれた青梅の友人が地元の日本酒でつくった梅酒「ぷらり」を送ってくれた。パーティー当日はチェロを持っていたので、酒類のような重い土産は買わなかったんだ。それを知って気を効かせてくれるなんて、フードコーディネーターのフーさんありがとう!

昨晩は11月までいた前の会社の友人と「情報交換」したので、今日は休肝日にしようと心に誓っていた。仕事が終わっても寄り道せずちゃんと帰宅したんだが、この「ぷらり」のボトルを見たらもう誘惑に勝てなかった。早速景気づけに一杯。うーんいける!調子が出たのでブログ執筆と相成った次第。製造元のサイトも書いちゃおう。了解を取ってないけど、宣伝になるからいいよね?

http://www.sawanoi-sake.com/sake/08liqueur.html

2006年5月 5日 (金)

青梅でほろ酔いコンサート

Photo_2 妻の友人がフードコーディネーターの資格を得たので内祝のようなパーティーを企画した。題して「食の安全を願う食いしん坊のパーティー」だと。いいねえこういうネーミング。場所がまたすごい。青梅と奥多摩の間にある渓流沿いの屋根付きバーベキュー会場で、詰め込めば100名以上入れそうだ。実際は85名程度の参加となった。私は妻と二人で参加し、お祝いにチェロと電子ピアノを演奏した。ちゃんとプログラムも作ったし、外国人も来るというので英語版まで用意したんだ。友人のマニアック音楽ブログの記録性にならってプログラムを記録しておこう。

Ⅰ.エドワード・エルガー作曲「愛の挨拶」作品12

Ⅱ.ウィレム・デ・フェス作曲「ソナタ」ニ長調作品13-1

Ⅲ.マリア・T・パラディース作曲 「シチリアーナ」

Ⅳ.アストル・ピアソラ作曲「リベルタンゴ」

会場は木を組んでその上に屋根を乗せただけの造りだから四方に壁がなかった。当初チェロの音が響かないのではと心配したが、幸い下がコンクリートだったのでエンドピンを直接床に置いて演奏したら、そこそこの響きを得たので良かった。演奏はまあまあだったよ。というより、乾杯で清酒、その後友人の裏庭で採れる梅をブランデーに漬けて作る自家製梅酒を楽しんだので、指がどこまで正確に動いたか不明だ。でも聴いてくれた人も同じぐらい飲んでいるので、音が違ってもわからなかったんじゃないかな。全てを知っているのはアルコールが苦手な妻だけだ。事実を知るのが怖いので「どうだった?」とは聞いてないけど・・・。

パーティーは飲んで食べて演奏して・・・だけでなく、地元アーティストのお披露目もあった。「e-盆栽」と称する事業を始めた国井さんという夫婦もいたよ。

http://www.e-bonsai.org/index.html

私は奥様の作る盆栽鉢が気に行ったので、ミニサイズのものを一つ買って帰った。ご主人が腕をふるう盆栽は枯らしてしまうのが怖いので遠慮しておいたんだ。また染谷さんという絵付けアーティストもいたし、鮫島さんというアクセサリー作家も展示即売していた。

地元の銘酒澤乃井を扱う酒屋さんはボトルを並べていたし、先にふれた自家製梅酒も美味しかった。SMAPxSMAPでも紹介された豚肉「東京X」も焼いて食べたよ。妻の友人は裏庭の横にある竹林から竹の子48本を引っこ抜いて、煮てくれただけでなく刺身や素焼きにもしてくれて、竹の子だけで3種類の味わい方ができた。妻の別の友人は中国の人と結婚したので餃子を作ってくれた。それがまた凝った味で良かったんだな。

うーむ、こんな贅沢していいんだろうか?まあ連休ももうすぐ終わるし、また地味なサラリーマン生活に戻るから、これぐらいは許してもらえるだろう。疲れたけど楽しい一日だった。

2006年5月 4日 (木)

武満徹|Vision in Time展

Visionsintime_ 2つの展覧会の相関図と「詩人の眼・大岡信コレクション展」の詳細を書いたので、残りは「武満徹|Vision in Time」(東京オペラシティアートギャラリー)だ。この展覧会はメジャーだろうから内容を紹介する必要はないと思う。それよりも日頃考えている音楽、美術、文学の関係について、この展覧会を媒介に再考してみることにした。

武満は「夢と数」の中で「音を聴く時-たぶん私は視覚的な人間だからでしょうが-視覚がいつも伴ってきます。そしてまた、眼で見た場合、それが聴感に作用する。」と書いている。(展覧会カタログではP.4)この感覚の相互作用は個人差が大きく、かつ曖昧なので法則的なものに帰結させることはできないが、考えるきっかけとして面白い題材だと思う。

例えば私の場合は、音楽を聴くとその楽譜のイメージが浮かぶ。それ以外のイメージ-例えば風景だとか-は全く現れない。一方、楽譜を見ると音が浮かぶが、楽譜以外のものイメージ-例えば風景だとか-を見ても音楽は浮かばない。どちらにしても武満と大違いだ。私が普通の人間の代表だとすると、武満は音と画像の両者の感覚を転換する何かを頭に備えているのだろうか?

「武満徹|Vision in Time展」の会場ではオディロン・ルドンの「眼を閉じて」を観ながらヘッドフォンで武満がこの絵にインスパイアされて作曲したピアノ曲を聴けるコーナーがある。ではこのセッティングで武満の曲を聴いた人は、その曲から眼を閉じた人物を想起するのが「正しい」観賞方法なのであろうか?また、そのように感じ取らなければその聴き手の感性は未成熟なのであろうか?

結論を出す前に別の例を挙げてみよう。ベートーヴェンの「月光」ソナタを聴いたら月の光を頭に描かないと正しく観賞していないのだろうか?実はこれは特異な例であり、私が必要な場合に言及する事例なのだ。実はベートーヴェン本人はこの曲を単に「ファンタジア(幻想曲)嬰ハ短調」という題で発表し、本来月とは何の関係もない曲だったのだ。「月光」というのは後の人が勝手に創作した話で、それが広まってしまったのだ。

それではこの曲を聴いて「月光」をイメージしたら、それは正しい観賞ではないのか?という別の疑問が沸いてくる。それは疑問ではなく愚問なのだが、そこを明確にしないと武満の聴覚・視覚論が進まないから、強引に結論を出してしまおう。

結論は、たとえ表題のたった一言(「月光」)であっても、それが文学的な示唆となって脳を支配し、結果として画像などのイメージを喚起する場合があるということだ。「月光」の場合はさらに特殊で、ベートーヴェン本人の本来の意図(単に音構成を楽しませる)から離れ、作品が「月光」という新たな表題を伴って一人歩きした結果、月のイメージを喚起させる(聴き手によっては)作品に変容してしまったのだ。

武満のピアノ曲の場合、たとえ目の前にルドンの絵が飾ってなくても、表題や曲目解説を読んで「眼を閉じて」というテキストを頭で理解した結果、音を聴いて眼を閉じた人間の姿が浮かんでくるという事は、別に不思議でも何でもない。逆にそのような画像が全く浮かばない人もいるだろうし、どちらが正しいなどという議論はナンセンスなのである。

武満は作曲と同時に、文学、美術においても多数の「創作」を残したと思う。そしてある場合は音楽作品の表題そのものが詩的霊感を呼び覚ますものとなり、仮に音を鳴らさなくても様々なイメージを喚起させる作品群を残してくれたと思う。

なお、武満は図形楽譜も創作し、今回の展覧会でも展示されている。私としては音楽という芸術からだけみたら図形楽譜はナンセンスであり、単なるこけおどしとしか評価できない。しかし、もっと広く捉え、図形楽譜を美術作品だと思えば腹が立たない。いや逆に大

変優れた美術作品ではないかと思う。

武満は「十二音技法」についても触れている。「今日いわれている十二音音楽も・・・中略・・・美学の純粋性が際立ちすぎることによって得る欠陥と同様の結果をまねくであろう。」(「音、沈黙と測りあえるほどに」、カタログP.46)。

これも図形楽譜同様、私としては音楽芸術だけからみたらナンセンスものだが、美術というか高尚な「知的遊戯」と捉えたら、大変高度な分野であろうと思う。大学の後輩でアルバン・ベルクのセリー音列パターンをそらんじているというつわものがいる。彼の趣味は否定すべきものではない。いや、高尚な趣味でうらやましいと思う。そのジャンルが音楽ではなく、「知的遊戯」という別ジャンルだと思えば、である。

この「知的遊戯」は文学の世界にも存在する。「いろは歌」などはその好例だ。「ジョイス語」なども同類であろう。

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